犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

久しぶりのブログ

 長い間放置していた。別に意図的なものではなく、結果的なものである。何か書こうかと思いつらつらと文字を綴ることもあったが、結局途中で全て消してしまった。「これを書こう」と思って書き始めても、次第にその話題を記事にする意味を見失う。意味などなくても構わないのに。

 

 まずは近況報告から入る。卒論をなんとか提出した。とても褒められた内容ではない。多くの方に迷惑もかけた。あらゆる角度から「今後の課題」をリアルに感じるものの、兎にも角にも提出したこと自体に価値を見出したい。

 どうせこれからも論文を書くのである。そして書く度に、「今後の課題」を嫌でも突きつけられる。ならばいっそ覚悟を決めて、書ききってしまった方が生産的である。「完璧を目指すより、まず終わらせろ」とも言う。完璧を目指す努力はもちろん怠ってはならないが、完了させる決意の方が優先される。とか言ってるけど明後日には忘れてるんだろうな…。

 

 もう一つの近況報告として、抑うつ症状の改善がある。去年の10月上旬あたりで勝手に薬の服用をやめた。その結果徐々にさまざまな意欲が減退し、12月頃はカーテンを閉めきった部屋に2、3週間近く篭る羽目になった。12月下旬から薬を変え、服用を再開した。ここ2、3日は調子が良く、集中力も1時間ほどはもつようになった。本も新書なら50p読むのも苦にならなくなった。

 改めて思ったが、やはり薬は飲み続けなければいけない。もちろん症状に個人差はあるし、個人によっても病状の経過など違いはある。そのため個人的な話にならざるを得ないが、もう二度とあんな生活を送りたくない。ただただ心を腐らせるような日々は本当に嫌だ。今までもそんな日々が何回もあったが、その度にその生活の最悪さを思い知る。

 ではなぜ、何回も「あんな日々は最悪だ」と思っていながら、服用をやめるのか。その理由は、考えるに「薬を飲むのもままならないほど疲れ切った日々があるから」だろう。別に薬が嫌で飲まなくなるのではない。薬を袋から取り出し、それぞれを適量ずつ手に取り、水を用意し、水とともに薬を飲む。この工程がひどく億劫に感じてしまう日がある。そんな日が続けば薬の効果も当然切れる。さらに億劫さは増していく。悪循環だ。

 誰かが言っていたが、鬱はやはり良くなることはあっても、治ることはないのだ。「鬱から全快しました!」という人をよくネットではみる。だがそういう人も実際は調子が良いだけで、きっかけさえあればポッキリ折れてしまうだろう。ただ、そういったきっかけを完全に排除できたならば、それは全快したと言えるのかもしれないが。

 もとから内向的な傾向の方がやや強い人間だったとは思うが、昔は今ほど他人に厭な感情をもっていなかった。街中の人混みも賑やかで楽しかったし、周囲の雑音も大して気にしていなかった。

 しかし今は他人が視界に入るだけで気が滅入る。赤の他人にも憎しみを覚える。雑音にもひどく敏感になり、目の前の作業にほとんど集中できなくなった。人と視線を合わせるのがひどく怖く、友人の目も見られない。辛いと言えば辛いのだが、それ以上に、こんな風になってしまったことに悲しみを感じる方が多い。

 

 暗い話題になってしまった。しかしブログなので許して欲しい。別にこの記事は出版物ではなく、個人的感情の吐露だ。気分を害されたならば、何か気が晴れることをされるのがよかろう。何をすれば明るい気分になるのかは、自分では見当もつかないが。

 

 久しぶりにブログを書いてみて感じたことだが、やはりツイッターとブログは担う役割が全く違う。どちらかがもう一方の代替品にはなり得ない。ツイッターは1投稿ごとに字数制限が設けられるため、どうしても思考が途切れる。「思考」という表現が大げさなら、「考え」と言い換えても問題ない。

 なんらかの文章を書く以上、その文章にはなんらかの思考が必ず入り込む。それが端的に表せるものならツイッターが向いているし、長いものならブログが良い。上手く使い分けて利用したいものである。まあ、自分はどちらも頻繁に使っているとは言えない気もするが。今日は以上。読んでいただきありがとうございました。