犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

卵かけご飯に関する試論——何が卵かけご飯をより美味くするのか?

・導入
 卵かけご飯は人類史上稀に見る発明と言える。ほかほかのご飯の上に卵をかけ、ご飯と混ぜる。味付けは醤油だけでも良い。これだけ手軽に作れながら、さっさと食べることもできる。『善の研究』で知られる西田は彼の主要概念「純粋経験」の例示として「美しく妙なる音楽を聴いているとき」を挙げていた。しかし彼がここで卵かけご飯を例に挙げなかったのは、きっとその存在を知らなかったからに相違ない。卵とご飯、卵かけご飯とそれを食す私、いずれも我(主観)と物体(客観)が分かたれる以前の、我々の意識に直接与えられる経験や事象である。彼には是非とも卵かけご飯を食していただきたかった。

 そんな話はどうでもいいのだ。そしてここからの話もどうでもいいのだ。どうでもいいが書くのだ。ここからの話とは何かといえば、卵かけご飯をより美味くする調味料とは何か、という話である。たしかに卵かけご飯はそのまま食べても美味しい。醤油というシンプルな味付けだけでもご飯がご飯がススムくんである。だが、そのような卵かけご飯をより美味く食べられるようにする方法があるとすれば、それは鬼に金棒、ヒカキンに最新最高の機材、吉田沙保里に対物ライフルである。そしてそうした方法はあり得るように思われる。
 私はよく卵かけご飯を食べる。理由は「作るのにも食べるのにもお金も時間もさほどかからないから」である。社会は私に厳しいが、卵かけご飯は優しい。そんなわけで卵かけご飯にはよくお世話になる。しかしそんな私でも人間である以上欲求がある。「もっと美味しく卵かけご飯を食べられる方法はないのか…」。卵かけご飯がそのままでも美味しいのは、繰り返し述べた通りだ。しかしより美味く食べられる余地が少しでもあるならば、試さない手はない。「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」という言葉もある。平成仮面ライダー屈指の人気作『仮面ライダーOOO/オーズ』でも欲望の重要性を説いている。明日という日を迎えるのも、欲望あってこそである。
 というわけで、以下では卵かけご飯をより美味く食べられる調味料と、その感想を書いていく。紹介する調味料は6つである。言うまでもないが、感想は個人の意見である。しかし、中には友人に勧められて試したものもあるため、私個人の舌が狂っているわけではなかろう。興味があれば、是非試していただきたい。また、ここでは元となる卵かけご飯を「ご飯・卵・醤油を組み合わせたもの」とする。前置きが長くなってしまったが、それでは紹介へと入ろう。


・調味料と感想
①塩
 まずは塩である。おそらくどの家庭にもあるだろう。ないのは一人暮らしをしている平均的な男子大学生の部屋ぐらいだろうが、塩は結構重要である。いざというとき、塩を舐めて水を飲んでいればしばらくは生きていられる。そういった意味でも、小さい塩を一瓶置いておくだけでも変わる。なんなら塩を自らに振りかけて、身を清めた気分になることもできる。しかしそんなことより彼がするべきなのは、さっさと風呂に入ることだろう。
 さて感想だが、まあ悪くはないがなくてもいい、という程度である。元々醤油によってしょっぱい味があるところに塩を入れるのは、得策とはいえない。下手をすれば不味くなってしまう恐れすらある。醤油とのバランスも考えれば良いのかもしれないが、あまりオススメはしない。

②塩と胡椒
 続いては塩と胡椒である。基本的に料理の味付けに際して、塩と胡椒さえあればなんでも美味くなる。野菜炒めにしろ肉にしろスープにしろ、塩分と胡椒の風味・刺激の組み合わせは料理を引き立たせてくれる。そんな塩と胡椒が卵かけご飯に合わないはずがない。
 …そう思って試したのだが、別に大して美味しくはならなかった。はじめは分量が少なかったのかと思い量を足してみたが変わらなかった。醤油と塩・胡椒がケンカしているわけではないのだが、別居しているとでもいえばいいのか。とにかく彼らは交わらず、それぞれがそれぞれの主張をするのみである。他に紹介する調味料の方がよほど試す価値があると言えよう。
 余談だが、私の部屋には大学一年の頃から置いてある塩胡椒のボトルがあるのだが、最近その塩と胡椒が、公園の砂場にある砂にしか見えなくなってきた。このまま使っていても大丈夫なのだろうか。もしかしたら俺が塩と胡椒だと思っていたのは、そこらへんの砂に過ぎないのではなかろうか。疑問は尽きない。

③ブラックペッパー
 今度は黒胡椒である。上では塩とともに胡椒についても言及したが、やはりただの胡椒と黒胡椒では味も風味も異なる。味付けに関してより刺激を求めるならば、断然黒胡椒を選ぶべきだろう。
 しかしその感想は、残念ながら上記のものと同様さして美味しいと言えるほどではない。やはり混じり合わないのだ。黒胡椒は美味しい。卵も美味しいし、醤油も別に悪くはない。しかしこれらは決して融和しない。食べていても「卵かけご飯の味と、ブラックペッパーの味がする」というだけである。それならその黒胡椒はカルボナーラにでもぶちまけるのが良策であろう。

④砂糖
 ここに来て読者は「こいつ気が狂ったか」と思われるかもしれない。その気持ちは分からなくもないが、私は至って正気である。たしかに「しょっぱいものと甘いもの足して何が美味くなんだよボケが」と言いたくなる気持ちもわかる。私もはじめはそうだった。これは友人から勧められて試したのだが、私も聞いた当初は「こいつ完全に頭か舌がイッてやがる」と思った。
 だがその味は、決して悪いものではないのだ。それどころか、むしろ美味いのである。半信半疑で試したこの組み合わせが、意外なことにもマッチするのだ。おそらく砂糖が醤油の味を緩和させながらも、ほのかな甘みを演出してくれるおかげだろう。これは上で述べてきたものたちと違い、別居することもなければケンカもしない。卵かけご飯を砂糖が引き立たせてくれる。少しでも興味があれば是非とも試していただきたい。
 しかしひとつ注意点があるのだが、それは砂糖の量に気をつけることである。いわゆるご飯茶碗一杯に対して、入れる砂糖の量は大体1gがベストといったところだろう。それ以上だと甘さが勝ち、極めて食べ物に対する侮辱を感じざるを得なくなるし、少ないと少し物足りなくなる。欲望は重要な要素だが、過ぎたるは及ばざるが如しである。

⑤七味唐辛子
 残りも少なくなってが、ここで辛みの登場である。私は辛い食べ物が割と好きな方ではあるため、七味唐辛子も部屋にある。何かにつけて「物足りない」と思えばとりあえずかける。それだけで大抵の食べ物は美味くなる。それが辛さの魅力と言えよう。
 しかし卵かけご飯との相性は良いとは言えない。悪いというほどでもないのだが、ほかの食べ物と比べると七味をかけたところであまり美味しくならなくなってしまう。無いよりはマシだが、あったからといって特別美味しくなるわけでもない。特に言うべきことがないという点では、ここで挙げる調味料の中で最も悲しい存在かもしれない。もう少し寒くなってくれば「かけそば」という最強の相棒が出てくるので、やつが輝くのはやはりそこなのだろう。

食べるラー油
 いよいよ紹介するものも最後となった。食べるラー油(以下、食べラー)はそのままご飯にかけてもよいし、他にもさまざまな料理に使っても美味しい。ラー油の辛さと香味、フライドガーリックのザクザクとした食感が食欲をそそる。一時期「食べラーが美味しい!」とメディアで紹介されて以来、調味料界において一定の地位を築いている。少し脱線するが、個人的にはご飯に食べラーをかけて食べるのはあまり好きではない。やっぱり口の中がベタつくのよね。
 そしてその気になる感想だが、これは最高の組み合わせである。もはや他に何が必要なのかと問いたくなるほどに奴らはベストマッチである。食べラーの辛味を卵がマイルドにするだけでなく、卵かけご飯に足りなかった食感をプラスしてくれる。互いの足りない部分を補い合える、それが卵かけご飯と食べラーなのである。おまけに個人的に好きではなかったラー油による口内のベタつきも、卵かけご飯となら気にならない。まさにこいつらこそが「ベストマッチなやつら」と言えるだろう。
 ちなみにだが、ただのラー油を卵かけご飯にかけてもさほど美味しいとは思えなかった。理由は七味と同様なのだろうか、やはり単なる辛味では足りないのである。食べラーとだからこそ、卵かけご飯はより輝けるのである。


・総括
 ここまで長々と書いてきたが、なんだかんだで卵かけご飯には醤油をかけてすぐ食べるのが良かろう。だってそもそもの理由として「手っ取り早く食べたい」から卵かけご飯を食べるのであって、別に卵かけご飯研究家になりたいわけではない。一般の人間には醤油さえあればよい。
 だがもし金がなさ過ぎて毎食卵かけご飯ばかり食べていて気が狂いかけているならば、試してみる価値は多いにある。変化あってこその生である。そうした試行の結果が思い通りのものとは違っていたとしても、何もせずに済ましてしまうよりは有意義なのではなかろうか。私はそう考える。

近況報告

 ツイッターのTLを見ていて「もう理系は院試終わったのか」と驚く。俺は試験すらまだ始まっていないし、その結果が出るのは10月である。このあたりのマイペースさが文学部らしいといえばらしい気もするので別にいいのだけど。そういえば同期も9月前には院試終わってたなぁ、あんまり覚えてないけど。

 院で何を研究しようかということをずっと考えている。正直言って本学文学部の院試は(おそらくだが)この「何を研究するのか」が一番問題になる。受験とかに当てはめれば得点源とでも言えばいいのか、とにかくここがとても重要である。本当に自由放任であるからこそ、「お前は何がしたいのか、何をやるのか」を自分で決めてやることが大切になってくるからだろう。院試云々を抜きにしても、研究目標は大事になってくるのは明らかだ。
 いつかのブログでは「俺がやるのは既存道徳の批判と修正だ」と書いた。そのつもりでしばらく勉強していたが、やっていくうちに「本当にそれでいいのか?」という疑問も湧いてきた。あんまり細かいことを書いてもしょうがない気がするので詳細は省くが、俺がやりたいのは「既存道徳から一歩引いた位置からの、批判と修正」なのではないか、という思いが出てきた(これは一応卒論でも扱ったテーマである)。それで「結局俺がやりたいのはどれなんだ? こんなんでやっていけるのか?」と悩んでしまって、しばらく体調を崩していた。

 ただ最近ずっと考えてたこともあって、少しずつだがやりたいことが固まってきた(ような気がする)。そもそもの問題として、道徳に関する俺の問いに「なぜ人は道徳的に善いことをするべき・した方がいいのか」というものがある。それに対する(今のところの)答えは、「善く(幸福に)生きるためだ」というものだ。人格への尊敬の念から義務に基づいて行為するのも、出来るだけ多くの人々の利益を増加させようとするのも、すべては「善く生きるため」なのである。それも、"その行為を行った当人"が「善く生きる」ために、人は道徳的に善いことを行うべき・行った方がいいのだ。
 これは利己主義のようにも聞こえるかもしれないが、そうではない。幸福の構成要素のひとつである「他者との深く親密な関係性」「そのような関係性を築くために必要な性格的特性」を欠いた生活では、「善く生きる」ことなどできないからだ。
 非常にざっくりとした説明だが、このようなことから研究目標としては「行為者が幸福に生きるための倫理学理論の研究」を行おうと思う。用語としては「行為者基盤的(agent-based)徳倫理学」といったところになるかと思う。「具体的にどんなことやんねん、ホンマにそんなことできんのかいな」と思われるかもしれないが、それは俺の修論できっちり明らかになるだろう、おそらく、たぶん、きっと。

 ちなみに徳倫理学は「なんでも色々がんばった」で有名なアリストテレスに端を発する。またそのアリストテレスの先生の先生であるソクラテスは、人が善く生きるために「魂(プシュケー)への配慮」を説いていた。そういうこともあって俺はツイッターでときたま「魂」という言葉を出したりする。ここでいう「魂」とは霊的なアレではなく、平たく言えば「人間性」みたいなものである。


 自分で書きながら半分を越えたあたりから若干飽きてきたので、あまりまとまりがなかったり理解しづらかったりするかもしれないが、あったらごめんなさい。めんどいので終わり。

カス

 「人間が嫌いだ」というと、だいたい決まって「でもあなたも人間じゃないですか」と返される。ふむ、なるほど、たしかに僕も人間である。だが、それがどうした? そう言われたからといって「あ、本当だ!俺も人間だ!知らなかった〜いやサンクスサンクス」とはならない。そんなことを言われるまでもなく、僕は自分が人間だと知っている。では、この相手はいったい何を意図してこのように発言したのだろうか。
 おそらく、「あなたは人間が嫌いだという。でもあなたも人間である以上、人間を嫌うのは間違っている」と言いたいのだろう。しかしここには飛躍がある。この飛躍をより分かりやすくするために、相手の主張を整理してみよう。

1. 俺は人間が嫌いである
2. 俺は人間である。
3. ゆえに、1は誤りである(=俺は「人間が嫌いだ」などと言うべきではない)

 相手の主張はこのような形に整えることができる。しかし、ここには抜け落ちている前提がある。それは「人は、自分を嫌うべきではない」という前提である。これがなければ相手の主張は(少なくともこの主張の内部では)整合的だとは言えない。俺自身が人間であることと、俺が人間を嫌うことの間にはなんの関係もない。どちらもただ事実や意見を述べているにすぎない。この2つをつなぐ理由がなければ、相手の主張は妥当なものとはなり得ない。
 第一、俺の「人間が嫌いだ」という意見の「人間」に自分が含まれているのかどうかも、ここでは明らかでない。ここでの「人間」を細かく言えば、「想像力を欠き、思慮も分別もない人型をした単なる獣」といったところだろう。それを長ったらしくいうのが面倒なので、単に「人間」と言っているだけだ(これを俺の落ち度・説明不足というのなら、それはその通りである)。
 さらに、このような「獣」に俺は含まれていない、と少なくとも俺は思っている。たしかに、俺もそのように振る舞うことがありうる。しかしそれは「獣」と対峙するような、限られた場面においてだけである。相手が人間らしい人間であれば、何かしらの不調を抱えていない限り俺はそのような行為は決してしない。なので、「人は自分を嫌うべきではない」と付け加えたところで相手の主張は——その内部では正しくなるが——俺への反論として成功しない。


 ……ということを面と向かって言ったところで、相手からすれば「は?なんやこいつめんどくさ」となるだけであり、相手は話の内容を理解せず、結局は時間の無駄である。そのため、俺は「そうですね〜(アホが。少しは考えて口開け)」と言うだけである。人間ってやっぱゴミだわ。

ルーティンワーク

 俺はルーティンワークがあまり好きではない。同じことをただひたすら繰り返すことになんの面白さがあるのか。分かりきった手順、分かりきった結果、そこに創造はなく、発見もない。とはいえ同じ作業を繰り返さざるを得ないことも多々あるので、黙ってやるのだが(バイトとか)。
 ここ最近の生活習慣もつまらなくなってきた。午前中〜昼過ぎまでは小論の作業、それから夕方までは読書、夕方から夜はバイト、といった感じである。新鮮さがなく、エキサイティングでない。もっと刺激のある生活は何処かに転がっていないかと探している今日この頃である。

 ただルーティンワークについて考える際、俺としては弓の話題は避けがたい。弓こそルーティンワークの塊だろう。同じ動作を、同じ手順で延々と繰り返す。流派によって違いはあるものの、大枠でその動作や手順は共通していよう。もし八節を無視したり独自の型を生み出したりしたら、先輩なり師範なり部活の顧問なり指導者なりから、的枠で頭をカチ割られることだろう。

 ただ、そうしたただただ同じことを繰り返す弓を、俺はつまらないとは思わなかった。思うように結果が出なかったり、その他の要因で道場に足が向かなかったりすることはあったが、弓が嫌だったことはない(俺が退部しなかった一番の理由はここだと思う)。他の繰り返しが嫌で、弓の繰り返しが嫌じゃない理由は何かと考える。
 「弓は好きだが、他のことは好きじゃないから」。それもあるだろう。だが、俺がやっていることは全て大なり小なり俺が好きでやっていることなので、これは適当な理由とは言い難い気がする(本当に嫌だったら、俺はとっくにやめている)。
 しかし、弓と他のことで何が俺の態度を変えさせていたんだろうと考えていくと、そもそも本当に違う態度だったのかという疑問も出てくる。思えば、冬の長期休暇中には本当に同じことばかり繰り返していたため、冬オフも中盤に入ってくると、はっきり言って飽きていた。「いつまでこんなことやんねん」「ただただ矢数かけてるだけちゃうか」と思いながらピョコピョコ引いていた。

 だがそういった時には、「つまんないな〜」と思いながらやっていても何も面白くないので、自分で何かしらの変化をつけて練習していた。例えば、カケを変えたり、手の内を少しずつ変えてみたり、胴造りの意識を少し変えてみたり、などなど。そうすることで何かしらの面白さを見つけようとしていた。
 あるいは、弓は一見同じ作業の繰り返しに見えて、実はそうではないということもある。同じ手順、同じ動作をしていても、同じ射をすることは恐らくない。弓において再現性の確立は最も重視されていると言っても過言でないが、どれほど中る人間であっても完全に同じく引いている人間はいないのではないか。極端に言えば、再現率が99%の人間はいても、100%の人間はいない、ということだ。

 それを考えると、自分がこれまでただの単純作業とみなしていたものも、実はそうではないのではないか、と思えてくる。遠くから眺めれば同じことの繰り返しでも、細部を見れば違うということが、俺が思っている以上に多いのではないか。「小論作業」「読書」と一言で言っても、毎度同じ作業をしているわけではない(流石にそこまでアホじゃないと信じたい)。もちろん、同じ箇所を訂正したり、読み返したりすることはある。しかしその繰り返しの中でも、いつも何かは違っている。決して大きくなくとも、何かしらの変化や刺激がそこにはきっとある。
 (ちなみにここで作業の中に「バイト」を挙げないのは、俺がバイトに対しては別に熱量をもっていないからである。もちろんバイトと言えど仕事である以上、きちんとやる。だがそれは労使関係を結んでいるからに過ぎず、責務を果たす代わりに、労働者としての権利を請求するためである。そこには何の情も熱もない。)

 そんなわけで今日も小論を書く。余裕をもって取りかかったためか、思っていたよりも進捗は良い。論文の基本骨子である「問い→主張→論拠」を提示する作業は終わった。あとは主張間の論理がしっかりしているか、論文全体がひとつの論理として完結できているか、無駄な部分はないか、誤字脱字はないかといったチェックや、参考・引用文献表の作成といったところである。個人的にここからの作業が一番面倒臭いため非常にダルいが、俺がやりたいことのためにはやらなければならないことなので、やるしかない。ぴえん🥺。
 それに、今書いている小論文は、あくまで俺にとってだがかなり満足度の高いものになっている。別に革新的な主張があるわけではないが、俺がこれまでやってきたことの現時点での集大成になっている。これを卒論として出しておけば教官もあんな渋い表情をしなかっただろうに…。この小論文をさらに拡張させていって(誰に見せるでもないが)きちんとした論文として完成させたいくらいである。えっへん😎。
 とは言いつつも、専門の人から見れば「なんだ、まだそんなことやってんのか」というレベルだろう。それは確かにその通りである。その理由は俺がやっている分野の特徴にある。この分野(「徳倫理学(virtue ethics)やメタ倫理学(meta-ethics)と一応言っておく)は哲学・倫理学でも、比較的最近になって注目されてきた分野であるため、やっている人があまりいない。
 メタ倫理学英米圏では一時期かなり注目されたため蓄積がそれなりにあるが、日本ではなぜかほとんど話題に上がらない(言及される機会が少なかっただけで、全くないわけではない。しかし、少ないものは少ない)。そんなわけで、書籍も論文も悲しくなるほど少なく、「そんなこと」をしておくのが現状関の山なのでである。もちろん、俺の圧倒的勉強量不足により、より先端の研究に触れられていないという事実もあるのだが…ぴえん。

 単純作業が嫌だという話からだいぶ内容が変わってきたが、僕の話というのはいつもそんな感じなので許してほしい。さて、というわけで今日も作業をこなしましょう。

おくすりのめたよ

 拍動がおかしくなる時が多々ある。別に心臓のあたりがおかしいわけではないので、すぐさま病院に駆け込むようなことはない。しかし、体の至るところで脈が変に波打つ。例えば頭、こめかみ、腕、太もも、ふくらはぎ、などなど。特にこめかみは酷い。
 よく漫画などで見られる「ビキッ」と青筋が浮き出るような、そういった感じではない。ただ「ドクンッ」と脈打つのみだが、そうなると一瞬頭が真っ白になり他のことが考えられなくなる。そうしたことがままある。
 このような状態は今に始まったことではない。いつからこうなったのか、そんなことはもう覚えていない。いちいち覚えていたらキリがない。俺はストレスへの耐性が弱すぎたり、神経質すぎたりするのだろう。すぐに人への怒りや失望、それによる疲労感が湧いてくる。そうなると何も手がつかず、なんとか手をつけたところで何も頭に入ってこない。ただただ無意味な時間を過ごすのみである。

 このような状態でいたいわけではないので(あといつも飲んでいる薬がちょうど切れたので)、先日いつもの病院に行ってきた。いつもなら、前回通院してからの経過を伝えたり、細かな変化を述べたりするだけだが、その日は思い切って相談してみた。このような不可思議な脈は、ストレスによるものなのか、それとも誰にでも——特に異常のない、健康な人でも——起こりうることなのか、と。
 先生の話では、そういったことは自律神経の乱れにより起こるらしい。曰く、興奮しすぎた神経を抑えるために、副交感神経が働くとのこと。その際に出てきた分泌物質がセロトニンである。セロトニンね、もう何回聞いたか分からんわ。あくまでこれは俺個人の感覚だが、俺のセロトニン関係の器官はほぼ壊れている。それが分泌する側か、受容体かは分からんが。もう何年もこの調子でやってきており、薬を飲み続けているにもかかわらず、以前の状態に回復していない以上、これは一時的な症状なのではなく、何かが欠落した状態なのだろう。いわば、五体満足であった人間が、事故により片脚を切断したような状態である。以前のような生活は、なんらかの補助なしでは望めない。
 たしかにこれは言い過ぎかもしれない。俺は元々このような人間だったのかもしれない。人間嫌いで、ペシミスティックで、世の人間は悪辣な者共ばかりだと諦観していたのかもしれない。イラッとすることがあれば脈が乱れ、頭がフリーズし、他のことが何も手につかず、ただただ怒るか、無気力に浸る人間だったのかもしれない。俺が元々はどんな人間だったのか、もうそんなことは分からない。ただ少し分かることがあるとすれば、以前と今ではいろいろな好みが変わり、昔は大好きだったことも今では興味をそそられなくなったことだろう。もちろん、その逆も然りで、以前は興味がなかったことでも、今では面白いと思えることもあるのだが。

 また脱線してしまった。先生に自分の状態を説明した。なんにしろ、目の前のことにロクに集中できない状態が続いている、だから薬を寄越せ、と。先生は当然処方を渋る。薬に依存するのを防ぐためである。しかし、それは俺からすれば見当違いなのである。
 ある意味で、俺は薬に頼らなければ、まともに作業に取り組めないのである。それは片脚を失った人が、義足を用いなければ歩けないのと同様のことなのだ。片脚を失った人が、車椅子も松葉杖も手すりもなしに、どうやって歩行できるというのか。それと同じ話なのである。もうこの状態が「回復」するものだと俺は思わないし、思えない。「改善」はできるだろうが、それは対処療法でしかなく、根治はありえないのである。
 仮に、根治できるものであったとしても、それに向けて努力をするのはあまり良い策だとは思えない。治療に大きな労力を割くより、俺は他のことにその労力を割きたい。薬で不調がカバーできるなら問題ない。俺の目的はこの状態から完全に回復することではなく、自分の状態がどうであろうと、俺のやるべきこと・やりたいことをやることだからだ。

 そんなわけで、薬を変えた。今度のものは最近出てきた薬らしく、色々と制限があるらしい。どんな薬だろうと、効きさえすればそれでいい。その薬が本当に効くか効かないか、その薬に依存するかしないか、などはここでは問題ではない。俺はあの状態を抑えられれば、それでいいのだから。

メモ:道徳への違和感その1

 カントは次のように語った。「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と。そしてその上で嘘に関する議論を持ち出した。

 ある殺人鬼があなたの友人を追っている。友人はあなたの家に飛び込んできて、殺人鬼から匿ってほしいと頼む。あなたは了承し、友人を匿う。その後殺人鬼があなたの家にやってきて、「ここにこんな奴(つまり、あなたの友人)がやって来なかったか?」と訊く。さて、あなたはどうするべきだろうか。

 ここで多くの人は直観的に(当たり前に考えて)「そんな人は来なかった」と答えるだろう。少なくとも、「ああ、その人ならほら、あそこのクローゼットの中にさっきからいるよ」なんて言わないはずだ。しかしカントは違う。正直に、友人を匿っていることを告げるべきだと言う。なぜ正直に答えなければならないのか。それは、嘘をつくという行為は「普遍的な立法の原理として妥当し」得ないから、である。

 もし「嘘をついてもよい」というルールが認められたなら、私たちの社会生活はほとんど崩壊する。私たちの日々の生活はお互いを信用することで成り立っている部分が多い。ここに「嘘をついてもよい」というルールが導入されてしまったなら、私たちの生活は立ち行かなくなるだろう。


 「必要な場合には嘘をついてもよい、というルールならいいのではないか」と思うかもしれない。しかしこの意見はカントからしても、またカントでなくても認められない。まず、この「必要な場合には」のように、道徳のルールにある条件を設けることをカントは認めない。そのように条件を設けてしまっては「普遍的な立法の原理」にはなり得ない。如何なる条件がなくとも成立するからこその「普遍的な立法の原理」なのである。
 また、カントでなくとも「必要な場合には嘘をついてもよい」をルールとして認めるには難がある。例えば、あなたが前から欲しがっていた服が、偶然数量限定で販売されていたとしよう。だがあなたの手元にはその服を買えるだけのお金はない。誰かから借りるにしても、返せるアテはない。こうした状況下で「必要な場合には嘘をついてもよい」というルールが認められているとしたら、あなたはたとえ返せるアテがないにもかかわらず友人や家族から金を借りても何も問題ないことになる。だが、この話はやはりどこか間違っているように思われる。ルールは破っていないにもかかわらず、何かがおかしい、と感じる人が多いだろう。


 カントの嘘にまつわる議論は多くの反論を呼んだ。しかしカントはそうした反論に涼やかに応答する。「嘘をつかないことと正直に話すことは違う」と。つまり、殺人鬼が友人の居所を訊いてきたとしても、あなたがその前日にある店で友人と会っていたならば「ああ、あの人なら(昨日)あの店で見かけたよ」と答えればよい。そうカントは答えた。もちろん、()内は決して口に出してはいけないが。これなら嘘をついていないし、友人を守ることもできる。実際カントは宗教裁判にかけられた際、このように嘘はつかず、しかし真実をありのままに語ることもなくやり過ごした。「嘘をついてはならない」というルールを守りながらも、決定的な危機を回避することは可能なのだと、彼自身が示してみせたのである。

 しかし、これは本当に正しい行為と言えるだろうか。たしかに嘘をついてはいない。その意味ではルールの遵守には成功している。しかし、「嘘をつかないが、真実も話さない」というのは処世術の一つに過ぎず、むしろこの種の不誠実さは道徳の観点から認めてはいけないものではないのか。そもそも、このような手順を踏むくらいなら、初めから「殺人鬼から追われている人は(特にその人が友人であるならば)守った方がいい」と考えて動けばよいのではないか。
 僕はカントの本をよく読んだわけではなく、嘘に関する議論も宗教裁判の話もどこかで見た程度の話であり、間違いもあるかもしれない。しかしこの議論の中には何かしら見逃しがたいものがあるような気がしてならないのである。

ペット

 僕は動物が好きである。犬や猫はもちろん、トカゲやヘビ、ハリネズミなどなど、挙げていけばキリがない。もちろんその中には例外もあるだろうが、僕は大概の生き物が好きだし、彼らを愛らしく思う。飼いたいとも思っている。飼育が難しい動物では、彼らに十分な暮らしをさせるどころか、不幸な生を強いることになってしまうだろう。僕のような人間——つまり、収入が低く、かつ安定もしていないような生活を送っている人間——では、飼育が難しくない動物ですら飼うのは躊躇われる。しかし、やはり飼いたい、一緒にいたいという気持ちは確かにある。

 その一方で、「動物を飼いたい」と思うときに、ある物憂さも浮かんでくる。それはつまり、「確実に彼/彼女らとの別れがやってくる」というものである。生には制限時間がある。その上彼/彼女らは、僕の身に何かが起きない限り、ほぼ確実に僕より早くこの世を去ることになる。彼/彼女らの死を、僕の方はこの世に取り残されたまま見送ることになる。それはとても辛いものだ。人間も含めて、生きてさえいれば、たとえ遠く離れていようと通じ合うことは可能である。しかし、死別は離別とは異なる。もう話せない。声も聞けない。相手の仕草を見ることもできない。もう二度と、楽しい時間を共に過ごすことはできない。それを考えると、動物を飼うことに対して辛く悲しい気持ちが徐々に膨らんでいく。

 そのような悶々とした気持ちを、動物と接する度に感じていた。こいつらと一緒に入れたらきっと幸せだろう。だけど、いつかは別れなくちゃいけないんだよな。なら、初めから飼わない方がいいんじゃないか——。そう考えていた。だが、そうした考えも最近は変わりつつある。確かに、生き物である以上命には限りがあり、必ず別れの時が訪れる。それは不可避である。しかし、本当に悲しさしか残らないのか。そうではない。別れはとても悲しいものだが、出会えたからこそ得られた喜び、楽しさがあるはずだ。「得られた喜びの方が悲しみに勝るから、飼った方がいい」などと言うつもりはない。喜びは喜び、悲しみは悲しみでしかない。それらを比較して、結果的にプラスかマイナスかなんて考えることはできないはずだ。

 得られた喜び・悲しみは、それぞれそのままに存在する。喜びは快いもので、悲しみは苦しいものだ。だが、出会えていなかったならば、それらの喜びも悲しみも存在できなかったものである。以前とある飼い主さんが次のようなことを仰っていた。「こんなに別れが苦しいのならば、出会わなければよかったのか? いいや、それは違う。たとえ別れがやってこようと、自分はこの子に出会えてよかった、と間違いなく言える」。僕もそう思う。出会わない方が良かったはずなんてない。たとえ回避できない悲しみが待っていようと、その子と共に過ごした時間は他の何にも代えがたい、かけがえの無い大切な時間なのである。


 残念なことに、今の僕では犬や猫を飼えそうにない。自分のことでさえ手一杯な現状では、ペットを飼ったところで彼/彼女らに辛い思いをさせてしまうだけである。だがいつか生き物を飼えるような状態になり、もし何かの生き物を飼うような機会が訪れたとしたら、その時は思いっきり一緒に楽しい時間を過ごしたい。たとえ涙に暮れる日が必ず来るとしても、その時までずっと「なんだこの飼い主www」と思わせられるくらい楽しませてやりたい。そんなことを考えていた。