犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

院試に落ちたりもしたけれど、私はげんきです。

きっと〜目にうつる〜全てのことは〜

第89回アカデミー賞を受賞した謎のハッピーターン型宇宙船に乗ったイカタコ知的生命体との交流を描いた映画こと「メッセージ」〜♪

 

ゆーとりますけども。皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はこのようにしょうもないことを言うくらいには元気です。

 

 院試の結果を一応確認してきました。といっても成績開示には時間がかかるので、採点した教官とのやりとりにはなるのですが。予想していた通り、やはり足切りがあった外国語科目のドイツ語で落ちたようです。一応他の科目では合格点をくださったとのこと。

 なぜドイツ語だと予想できていたかと言うと、通常受験者はこの外国語科目で英語を選択して、余裕で足切りのラインを越えて無事合格するものです。しかし何をトチ狂ったのか僕は、そこでドイツ語を選択してしまったのです。そして文字通り爆死した次第であります。もう足の付け根あたりからバッサリやられましたね。まいったなこりゃ。

 これは僕の院試に関する情報不足が一番の原因でしょう。分からないことは人に聞く、周囲の人に頼る等を怠った僕の責任です。しかしこんなところに足切りがあるとは思わんやろ…。鶴の恩返しの鶴もビックリのトラップやでホンマに。

 ただ、ドイツ語以外で合格点をもらえていても、やはりもっと勉強すべきことがあるのは明白でした。その点は僕も教官も把握で納得済みです。やっぱりほぼ3年放置してたものを1年でカバーしようとしてたのは無理があったのかもしれんね…。

 なのでこの失敗を踏まえて、「外国語は英語を選択すること」「専門分野における“学部レベルの基本事項”は身につけること」「英語にももっと親しむこと」「なんでも自分でなんとかしようとせず、周りの人に助けを求めること」を今年は徹底します。特に最後のはず僕がずっと抱えている問題なので、うまくやっていきたいものです。

 加えて金銭面でもなんとか余裕をもたせたいですね。「貧すれば鈍する」とはよく言ったもので、やはり金銭的に追い詰められると視野が狭くなります。そうした視野の狭さが今回の失敗の一因でもあるでしょう。経済面・健康面などなど、諸々の余裕をもって事に当たっていきましょう、といったところです。

 

追記

 「そこまで勉強にこだわってないで、働いたらどうなんだ」という意見もあるでしょう。実際そんなことを言われたのも、1度や2度ではないですしおすし。この意見には「親にあまり迷惑をかけるな、自立しろ」という意味もあるのだろうと思われます。

 ですが心配は無用です。僕は自分のやりたいことをやるために、親からの支援はほぼ断っています(やっぱりお金が絡むと色々しがらみが出来ちゃうのでね)。そしてもし今後完全に支援を断たれたとしても、生活費や学費、全て自分で出したって構わないという心づもりでいます(いうて学費はたぶん免除してもらえる見込みが高いのでなんとかなる)。心づもりでなんとかなんのかいなと言われそうですが、健康な体とそれなりの心づもりがあれば、人間意外となんとかなるものです。

 就職よりも勉学を選ぶことに関しては、恐らくどうしようも無いです。僕はこれ以外に楽しく生きられそうな道を見つけられないのですから。以前は就活もしていましたが、就活における最も根本的な問題、つまり「何のために自分は働くのか」に対する僕の答えは、いくら考えても「勉強するための金が欲しいから」しか出てきませんでした(そこを捻り出すのが就活だろと言われたらその通りなのですが…)。それで「そんなまどろっこしいことやるくらいならもうさっさと勉学に励めばよくね?」と思い、就活はやめた、という経緯があります。

 安定した生活やステータス、愛する人との幸せな家庭よりも、僕はもっと自分の興味関心のあることを知りたいし考えたい。そのためならば他のことを二の次にするのは、犠牲だなんて全く思いません。所詮好きでやってることなのですから。

 こういうと変人アピールのように聞こえるかもしれません。しかし、人間ならば誰しも一回きりの人生で、一番大切にしたいものがあるはずです。それは裕福な生活や社会的なステータスだったり、幸福な家庭生活や仕事での成功だったりするでしょう。

 もちろん僕も、お金はたくさん欲しいですし、社会的ステータスだって得られるものなら得たい。可愛い彼女や綺麗な奥さんだって出来ることなら欲しい。でもそれよりも欲しいもの、やりたいことがある。それが僕の場合は研究だったという、ただそれだけの話です。

 皆さんもそれぞれ自分の求めるものがあるかと思います。こんなクソ同然の世の中ですが、自分なりの幸福に向かってみんなで幸せに生ききってやりましょう。おわり。

追記:僕の最近のツイートについて

 以前の記事で僕は「僕のやることについて疑問や非難を覚える人もいるだろう」と書いた。これについてやや説明が足りないな、と感じたので、このことについてもう少し詳しく書くことにする。要は本記事は、当の記述に関して、そして僕がやることに関しての自己弁護である。

 

 僕がやっていくことは「既存道徳の批判と修正」である。これには変わりがない。そしてこの行為によって、それを目にした皆さんが疑問や反感を覚えるだろうこと、そうした反応に対して妥協するつもりがないことも変わらない。

 すでに僕らが受け入れている道徳観に対して僕は「待った」をかける訳なので、それに関して「それってどうなの?」「それは違うんじゃない?」と思うのは、ある種当然とも言える(ちなみにだが、僕自身もこうした視点は無くさないように心がけるつもりではある)。そしてそれらの疑問や批判を鑑みながらも、「これはこう考えた方が筋が通る、妥当だ」と考えたならば、その意見を変えるつもりもさらさらない。

 ここまでは前に書いた通りだ。説明不足だったのはここからである。僕は皆さんをとても大切だと思っているが、それよりも自分の研究(研究って言葉を使うのはなんか恥ずかしいですね笑)を第一に行動したい、というのが、あの記事において最も伝えたかったことである。

 皆さんにも大切なものや人たちがいるはずだ。それは大好きな趣味であったり、大切な友人たちや恋人、パートナーと過ごす時間であったりするだろう。もちろん僕にもそういったものはある。音楽を聴くのはもちろん大好きだし、映画やアニメ・漫画を観たり読んだりするのも好きだ。友人たちと過ごす時間も、言うまでもなく僕にとってはとても大切な時間である。恋人の話はするな、それは俺に効く。

 僕が変わってくることができたのは、紛れもなく皆さんがいてくれたおかげというものある。だがそれ以上に、皆さんと過ごす時間は僕にとってとても楽しい時間でもある。なので簡単に手放すことはできない。

 

 しかし、それ以上に僕は、自分の中にある疑問に対して出来るだけ誠実に、真摯に本気で取り組みたい。この気持ちだけは譲りがたい。僕らをこれまで縛ってきた道徳観に対して、自分なりの答えを出すまでは、僕は他のことに熱中できそうにないのである。この点が、あの記事で書き損なった点である。

 とはいえ、自分の生活の全てを研究に費やすような生き方をするつもりも、僕にはない(そういった「何かに全てをかける」という価値観・ものの見方自体に僕は懐疑的でもある)。そうした一点集中型の生き方は、僕にはとても無味乾燥でつまらなさそうに見える。そのため、僕は音楽も聴くしアニメも観る。漫画も本も読むし、食べたいものも食べる。親しい人たちとも、出来うる限り楽しい時間を過ごしたい。その上で、研究にばちこり取り組みたい。

 

 僕は何よりも僕自身のために、楽しく生きたい。いつか来る死の時に「大変なことも多かったけど、なんやかんや生きていてよかったな。楽しかったし、また人間に生まれたいわ〜」と思って死にたい。そのために、以上に挙げたような研究以外のことも、僕の生にとっては必要不可欠なものである。

 とはいえ、やっぱりせっかく生きてるんだから一番面白そうなこと、つまりは研究を僕は楽しみたい。そのせいで僕個人の趣味にかける時間は減るだろうし、他の人たちと過ごす時間も少なくなるだろう。こうした「付き合いの悪さ」に関しての、弁護でもあったわけである、あの記事は。そうして付き合いが悪くなることに関して、僕は「予定を合わせられなくてすまんな…」とは思うものの、自分の方針は変えない。それが俺の忍道だってばよ。

 

 勢いで書いて来てロクに推敲もしていないのでめちゃくちゃな構成になっている気もするが、要は、「たぶんこれから(まあこれまでもだろうけど)付き合い悪くなるだろうけど、ウチのこと嫌いにならんといてや〜」という話である。僕は1人で過ごす時間も好きだが、やっぱり他の人たちと過ごす時間も同じように好きなのだ。

 僕はかなりの気分屋なので、その時の気分で遊びに誘われてもついて行ったり、行かなかったりする。でもその時は「まあ都合合わなかったんだべ」と受け流してください、そしてまた誘ってくれ〜という話でした。おわり。

メモ:やりたいこととやるべきこと

 勉強・研究に専念すると言いながら、あまり動けずにいた。悩んでいたからだ。やるべきことはたくさんある。その中で如何に優先順位をつけて動けばいいのか。今自分がやるべきことは、これじゃないのではないか。ずっと読みたかった本を読んでいても、映画を観ても、他の何をしていても、そんな考えがすぐに浮かんで来て、なかなか集中できずにいた。あれもこれもそれもしたいのに、やっていていいのか。そんなことを考えるうちに、また悪い方向に考えが進んでいた。これをしていて、本当にいいのか。もっとやるべきことが他にあるんじゃないのか。

 

 そんなこと分かるか。あれもこれもそれもしたいなら、全部やればいい。読みたい本も読みたいだけ読めばいいし、映画もアニメも好きなだけ観ればいい。ブログも好きなだけ書け。「もっとやるべきこと」なんてどうせいつでも無限に湧いてくる。それなら、優先順位つけようとしたり考え込んだりしないで、手当たり次第やっちまえばいい。研究に必要な文献なら、どうせまた何回も読むことになる。とにかくやる。手を動かす。おわり。

ブログの記事が長い理由

・今まであまり吐き出さずに、自分の中に溜め込んでいたものが色々とあること

・それらをツイッターに書いてもよかったのだが、単に俺を知っているからフォローしてみた人に、そんなものを見せつけるのは心苦しかったこと(そんな心配などしなくても嫌ならミュートなりリムブロなりしていてくれるだろう、とは思いつつも)

・同時に、俺が書こうとしているものはどうしても長くなりがちなので、それらをダラダラツイッターに書くのも気が引けていたこと

・だが、ブログならば興味のある人しか見ないだろう、ということ

・ならばブログでは思いっきり吐き出してやろう、存分に書き殴ってやろうと思ったこと

・それらをやり切らない内には、長くなってしまうだろう、ということ

人間嫌いに関するアレコレ

 とある日のこと。僕はあるコーヒーチェーン店で本を読んでいた。その日は全国的に特に寒いとの予報が当たり、外も寒ければ店内も閑散として寒々しいものだった。そんな中で、僕の2つ隣の席に座る男性が、カチャカチャとゲームに熱中しながら独り言をずっと呟いていた。

 ゲームすることには何の問題もない。カチャカチャ音もまあよい。店内には他に、パソコンのキーボードを打っている人もいた。カチャカチャ音もそうした環境音の1つだし、キーボードを打つ音と大差はない。

 だがしかし、静かな店内で1人、ずっと呟き続けているとはいったいどういうことだろう。周りには僕以外にも客はいる。たまに漏れるならまだ許そう。だがそういつまでも続けられては、さすがにこちらも気が滅入ってくる。単純に、僕はその人にイラついていた。

 

 モラルのない人間は世の中に一定数存在する。歩きスマホをする人。車道にはみ出してまで横に広がって歩く人。電車やバス内で場所を詰めない人。夜更けに掃除機や洗濯機を使う人。店員に横柄な態度をとる人。煽り運転をする人。公共の場で、周囲を顧みずに行動する人々。

 そのような人々を、僕は大学に入るまで大して気に留めていなかった。というか、ほとんど視界に入っていなかった。中学・高校と周囲の環境は変われど、自分の周りにいる人たちは本当に良い人ばかりだ、自分は人間関係に恵まれている幸福な人間だ、とすっかり思い込んでいた。

 しかし浪人期や、特に大学入学以後はそのような無邪気な考えも無くしつつあった。周りにいる人間のさまざまな悪性ばかりが目につくようになり、厭世的な考えが支配的になっていった。そのようなことばかりが頭にこびりつき、いつしか人間が大嫌いになっていた。

 公共の場で周りへの配慮を忘れる、あるいはそうした配慮の必要性自体を理解できない人間が、世間には実際にいる。それは動かしがたい事実だ。だが、そうした人間がいることも承知で、僕は社会に参画しているはずではなかったのか。少なくとも、原理的にはそうだ。民主主義社会とは、自律した個人の集団から成る。僕は異質な他者との共存を承認した上で、自分の意志でこの社会にいる。

 だから、これは仕方のないことなのだ。本当にもう人間が大嫌いならば、山にでも籠もればいい。それができない以上、人間の悪さも引き受けた上で暮らしていかなければならない。そう言い聞かせてきた。

 実際、例の男性に「ゲームをやめろ」というのはお門違いであり、なんの解決にもならない。たしかに、僕が注意することでその男性はゲームをやめるかもしれない。そうすれば僕の気も晴れるだろうし、他の客の心も少しは安らぐかもしれない。

 しかし本当に問題なのは、僕が多様な趣味嗜好をもつ他者を受け容れられるかどうかだ。他人がどうこうではなく、あくまで自分自身の問題である。ゲームをやめさせたところで、それは一時的な不満の解消であり、僕自身の問題解決を先延ばしたに過ぎない。

 この他人への嫌悪は、僕の早とちりである可能性も大いにある。実際、およそ理解し合えないだろうと思われる人でも、よくよく話してみると意外と通じることは往々にしてある。彼もそんな1人かもしれない。話せば分かる人かもしれない。

 だがそんなことをしても意味がない。彼と話して彼と分かり合えたところで、また別の理解できない人が現れる。そのときにまた僕は、その人と理解し合わなければいけないのか? そんなことを一々やっているうちに、人生などすぐに終わってしまう。

 コミュニケーションをとることは、やらなくてよいことでは決してない。相互理解を図ることは、生活のあらゆる面で重要だ。だが人生は有限だ。リソースに限りがあるならば、優先順位をつけて利用していかなければ、本当に大切なものを見失ってしまう。そのリソースが時間などといった、持ち越せない保存の効かないものならば尚更である。

 

 「やはり人間には厭な気持ちにさせられる。だがそれもしょうがないことなのだ」と自分に言い聞かせる。イラつきを抑えつつ、読書に戻ろうとする。そのときにふと、次の考えが浮かんだ。それは「俺は自分の周りの人間を嫌っているが、それは何を、どこまでを指すのか」という疑念である。

 僕は大学入学以降に人間嫌いが加速度的に増していった。その結果周囲の人には非常に攻撃的な態度をとり、不快な思いをさせた。当時の僕の様子を見ていた、高校からのある友人は「お前大学にいられるのか(あんなに悪態ついて周りの人間とやっていけるのか)?」と尋ねたほどだった。

 こうした人間嫌いは、僕が僕自身の周囲の人間に対して向けていたものだった。だがこれは本当に正しかっただろうか。もちろん、そうした行為は不当である。感情任せに他人に当たってよい理由などないと、直観的に判断できる。

 しかし、このような直観によらずとも、僕の行為の是非を判断できる余地があるのではないか。つまり「僕の周囲」とはどのような空間を指し、それはどの程度の広がりをもつのか。ここは理屈に従って、改めて考えなければいけないのではないか。そんな問いが浮かんだ。

 では、「僕の周囲」とはどのような空間だろうか。まず、その空間とは「僕の人間関係」と同義であろう。ではどのような人間関係か。ごく身近な人間関係か? …まぁ、否めない部分はある。色々と波乱含みだったのだから。自分が直接的な原因だった部分もあれば、間接的な部分もあった。しかし本当にそれだけが「周囲」だろうか?

 

 僕が自分の人間嫌いを痛感するのはいつだろう。それは体感だが、「自分とほとんど、または全く関わりのない他者といるとき」である。歩きスマホ、はみ出し歩行、煽り運転、他者への無配慮。これらは僕のごく身近な人間が起こしているのではなく、見知らぬ他人が起こしているものである。それらに対して僕は、強い嫌悪感を抱くのだ。

 これは僕の単なる直観に過ぎないのかもしれない。しかし実際、僕の身近な人々はモラルやマナーを重視し、自分以外の人にも意識を向けられる立派な人格をもつ方ばかりである。こうした経験的な事実から、身近な人とそうでない人との区別もつけられる。絶対確実とは言えないにせよ、こうして「僕の周囲」が何かは分かった。しかしこの疑問に紐づいて、次の疑問が浮かんでくる。それは、なぜ僕が人間嫌いになっていったのか、である。

 

 僕が人間嫌いを拗らせたのは大学入学からである。であるならば、そこに何かしらの原因があると見てよいだろう。僕の身に起きた、高校までと大学からとでの大きな変化とは何か。それは、生活する環境の変化である。かなり大雑把な言い方になるが、高校までは田舎、大学からは都会と、生活環境はかなり変わった。そして生活環境の変化は、人間関係の変化も引き起こす。

 田舎では人間関係がある程度固定されていて、その中で生活が回る。実際僕は安定した空間の中で、気を許せる友人たちと過ごすことができた。しかし都会の人間関係は流動的である。赤の他人と向かい合い、食事をすることもザラにある。その上僕は今や、見知らぬ他人と同じ空間・時間を共有することの方が多い。

 これは「田舎は良く、都会は悪い」という話ではない。人間のもつ善悪という観点からすれば、田舎と都会に違いはない。ただ大学入学を境に、他人という母数が急に増加したこと、加えて親しい人とそうでない人とで、関わる時間の量に大きな差が生まれたこと、これら2点が僕の人間嫌いを生み、悪化させていった大きな原因だろう。

 

 僕の中にあった1つの疑問——なぜ僕はここまで人を嫌いになってしまったのか——に対する答えは、恐らくこんなところである。こんなことを考えたところで、何かが大きく変わるわけではない。モラルのない人間はモラルのないままだし、ゲームのカチャカチャ音も彼の独り言も止まない。モラルに欠ける人々に、僕は変わらず嫌悪感を持ち続けるだろう。そしてこの他者への嫌悪感から、周囲の人を傷つけてきたことだって変わらない。ただ今思うことは、「やはり俺は人間関係に恵まれているな、恵まれていたんだな」ということである。

最近の僕のツイートについて

 最近僕のツイートは、自分の好きなことを語るものが多いが、他人へ向けたものも多い。なぜ他人に向けたものが多いのか。それは、これまで僕と付き合いがあった皆さんとは今後、接点が極端に——少なくともこれまでよりは確実に——減っていくだろう、という予感があるからだ。

 もちろん、会おうと思えば会えるだろう。互いの予定の調整次第ではそういったことは十分可能である。そういう意味での接点は十分ありうる。問題は心理的な接点の方だ。

 

 僕が今一番興味があって、これからもやり続けたいことは、ごく手短に言えば「既存道徳の批判と修正」である。この既存道徳とは、僕自身や皆さんを含めた、世の中の多くの人が受け入れているものでもある。それを少しでも変えていきたいと思っている。(なお、この僕らが今現在受け入れている既存の道徳と、僕が求める道徳の違いについては、また別の記事で書くのを予定している。そのためこの話題について興味のある方は、是非そちらも読んでいただきたい。)

 

 僕がやりたいことは既成の道徳観の変更であり、否定だ。そうした道徳観の否定を僕が行う中で、時には僕のやっていることに対して、疑問や反感を感じることもあるだろう。そしてその疑問や反感から、僕との心理的・物理的距離を置こうと思う人もいるだろう。

 そうした距離の開きが生まれてこないことを、僕は祈っている。しかし、もし生まれたとしても、それを縮めたいとは特に考えていない。できることなら距離が開かないようにしたいとは思っているが、だからといってそれを中心に行動するつもりはない。みんなのことはもちろん大好きだし大切だ。だがそれ以上に、僕の中にある道徳への疑問について、納得のいくまで考え抜いてなんらかの答えを出したいという気持ちを、僕はより大切にしたい。

 もちろん、そんな距離ができないことが一番望ましいことである。また距離が生まれたとしても、それがさらに後に縮まることも十分ありうる。だけど何がどうなるかなんて、そんなこと誰にも分からない。ラプラスの悪魔がどこにいるのか、そして僕らにその叡智を授けてくれるかどうかを、僕らは知り得ないのだ。

 

 距離が生まれることは、少なくとも僕の本意では全くない。しかし仮に距離が生まれてしまったとしても、僕はそれをしょうがないことだと受け入れる。申し訳ないが、とても大切な皆さんよりも、更に大切なものが僕にはある。その中で僕と皆さんは離れていってしまうかもしれない。そしてその距離は一度生まれたら最後、ずっと縮まらないかもしれない。

 それならば、その時が来る前に、伝えられることや伝いたいことがあるなら、今のうちに伝えておきたい。伝えておくべきだ。そう考えて、僕は自分の周りに居てくれる人や、かつて居てくれた人に向かってツイートしていたりする。

 

 僕は周囲の人々に本当に感謝している。僕はあなた方に対して、とても失礼な態度をとっていた。それは今でもあるかも知れない(なるべく気をつけてはいるが)。また態度以外にも、色んな迷惑を沢山かけてきた。大学で知り合えた方々はもちろんそうだし、高校までの友人たちにも不快な思いをさせてきた。

 それでも一緒にいてくれたことに、伝えられないぐらい感謝の気持ちがある。本当にありがとうございます。皆さんがいなければ、僕は絶対にどこかで死を選んでいました。それでも生きていようと思えたのは、皆さんが僕の近くに居てくれたからです。皆さんが僕の孤独を紛らわせてくれたおかげです。

 高校からの友人、大学の部活を通じて知り合えた諸先輩方や後輩たち、そして同期であり仲間である友人たち、あるいはネットで知り合えた方々へ。同じ言葉しか出てきませんが、本当に本当に感謝しています。

 

 これまでもそうでしたが、今後僕は僕のやりたいことに向かって、今まで以上にやっていきます。そのため、もう皆さんとの接点がなくなってしまうかも知れません。ですが、接点がなくなったとしても、僕は自分の向かう方向をきっと変えませんし、変えられません。

 しかし、たとえそうなったとしても、僕はいつまでも皆さんが大好きですし、ものすごく大切に思っています。こんな面倒くさい僕に付き合ってくれた、全ての人に感謝と愛情をもっています。これまで本当にありがとうございました。僕が嫌になったら、そのときは遠慮などしないでください。しかし願わくば、こんな僕ですが今後も変わらず付き合っていってくれると大変嬉しいです。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

鬼束ちひろを久しぶりに聴いてみて

 宇多田ヒカルが生み出す作品群の根源的テーマが「孤独と愛」ならば、鬼束ちひろのそれは「存在の不確証性」と言えるだろう。と言っても、この2つのテーマはそれほど隔たったものではない。両者の始まりと行き着く先は同じである。ただその道程は非常に異なっている。

 

 鬼束ちひろの根底には、自己の存在の不確かさがある。自分という存在がこの世界に確かに存在している、という確証が持てない。それは彼女の繊細かつ鋭敏すぎる感受性が、世界の醜さを嫌というほど感じ取ってしまうからかもしれない。あるいは、自己と世界の間にある断絶があまりにも大きいために、世界から疎外されているような感覚に陥ってしまうからかもしれない。いずれにせよ、自己と世界があまりにも異質であるために、彼女は「どこにも居場所なんてない」と、悲痛な歌を歌う。

 

 だが自己と世界の断絶を埋めうる存在を彼女は見つける。それは他者である。他者は自己とはあらゆる面で異なっている。物質的にも、心理や意識といった精神的な側面でも、己とは異質な存在である。

 しかしそんな他者であっても、理解し合える点がある。互いに異なる存在であり、両者には隔たりがあったとしても、それらを繋ぐものがある、ということが分かる。それは愛かもしれないし、友情かもしれない。恐らく明確な名前で同定できるようなものではない。しかしその自己と他者を繋ぐものは、たとえ歪な形をした「貴方の手作り」であっても、確かに自分へと向けられたものである。このような繋がりによって自己と他者、ひいては自己と世界の間のあると感じられた隔絶を乗り越えることができる。

 

 しかしそれではまだ十分とは言えない。自己たる「私」の存在を確証することはできた。だが、「貴方」である他者はどうか。「私」が抱えていたように、「貴方」もまたこの世界における自分の存在を疑いたくなってしまう、あるいは疑わざるを得ないときが来るかもしれない。

 自己の存在の不確証性が苦しいことを「私」は知っている。そんなときに「私」には何ができるのか。「貴方」は何も問題などないかのような素振りを見せていたとしても、本当に「分かり合えているかどうかの答えはたぶんどこにもない」。いくら大切で身近な存在だとしても、結局他者は他者でしかない。相手の考えを完全に把握しきる術を我々は今まで持たなかったし、恐らく今後も持ち得ないだろう。

 だからといってそこで問題を投げ捨てるわけにもいかない。大切な「貴方」だからこそ、「私」が感じていたような息苦しさ、生き苦しさを抱えさせたままにはしておけない。では「私」には何ができるのか。

 それはせいぜい、「身体を寄せ合うだけ」だろう。他者が考えていることを十全には、我々は捉えられない。ならばせめて、触れ合うことで互いの物質的な存在の確かさを確認したい、してもらいたい。お互いの温もりを感じ合うことで、確かに「貴方」はここにいると伝えたい、確かに自分はここにいるんだと思ってもらいたい。自分一人だけではなく、異質な他人との関わりによって、「私」も「貴方」も確かにこの世界の中に存在している。それを確信して、安心してもらいたい。

 

 以上が「月光」「流星群」「私とワルツを」の3つ、つまりドラマ「TRICK」の主題歌に用いられた楽曲群を聴いて感じたことだ。正直、鬼束ちひろの曲でマトモに聴いたのはこの3曲だけである。他の曲を聴くと、また違った理解を得られたり、解釈ができるかもしれない。それを楽しみに、上の3つ以外の曲も聴き漁っていこうと思う次第である。