犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

ルーティンワーク

 俺はルーティンワークがあまり好きではない。同じことをただひたすら繰り返すことになんの面白さがあるのか。分かりきった手順、分かりきった結果、そこに創造はなく、発見もない。とはいえ同じ作業を繰り返さざるを得ないことも多々あるので、黙ってやるのだが(バイトとか)。
 ここ最近の生活習慣もつまらなくなってきた。午前中〜昼過ぎまでは小論の作業、それから夕方までは読書、夕方から夜はバイト、といった感じである。新鮮さがなく、エキサイティングでない。もっと刺激のある生活は何処かに転がっていないかと探している今日この頃である。

 ただルーティンワークについて考える際、俺としては弓の話題は避けがたい。弓こそルーティンワークの塊だろう。同じ動作を、同じ手順で延々と繰り返す。流派によって違いはあるものの、大枠でその動作や手順は共通していよう。もし八節を無視したり独自の型を生み出したりしたら、先輩なり師範なり部活の顧問なり指導者なりから、的枠で頭をカチ割られることだろう。

 ただ、そうしたただただ同じことを繰り返す弓を、俺はつまらないとは思わなかった。思うように結果が出なかったり、その他の要因で道場に足が向かなかったりすることはあったが、弓が嫌だったことはない(俺が退部しなかった一番の理由はここだと思う)。他の繰り返しが嫌で、弓の繰り返しが嫌じゃない理由は何かと考える。
 「弓は好きだが、他のことは好きじゃないから」。それもあるだろう。だが、俺がやっていることは全て大なり小なり俺が好きでやっていることなので、これは適当な理由とは言い難い気がする(本当に嫌だったら、俺はとっくにやめている)。
 しかし、弓と他のことで何が俺の態度を変えさせていたんだろうと考えていくと、そもそも本当に違う態度だったのかという疑問も出てくる。思えば、冬の長期休暇中には本当に同じことばかり繰り返していたため、冬オフも中盤に入ってくると、はっきり言って飽きていた。「いつまでこんなことやんねん」「ただただ矢数かけてるだけちゃうか」と思いながらピョコピョコ引いていた。

 だがそういった時には、「つまんないな〜」と思いながらやっていても何も面白くないので、自分で何かしらの変化をつけて練習していた。例えば、カケを変えたり、手の内を少しずつ変えてみたり、胴造りの意識を少し変えてみたり、などなど。そうすることで何かしらの面白さを見つけようとしていた。
 あるいは、弓は一見同じ作業の繰り返しに見えて、実はそうではないということもある。同じ手順、同じ動作をしていても、同じ射をすることは恐らくない。弓において再現性の確立は最も重視されていると言っても過言でないが、どれほど中る人間であっても完全に同じく引いている人間はいないのではないか。極端に言えば、再現率が99%の人間はいても、100%の人間はいない、ということだ。

 それを考えると、自分がこれまでただの単純作業とみなしていたものも、実はそうではないのではないか、と思えてくる。遠くから眺めれば同じことの繰り返しでも、細部を見れば違うということが、俺が思っている以上に多いのではないか。「小論作業」「読書」と一言で言っても、毎度同じ作業をしているわけではない(流石にそこまでアホじゃないと信じたい)。もちろん、同じ箇所を訂正したり、読み返したりすることはある。しかしその繰り返しの中でも、いつも何かは違っている。決して大きくなくとも、何かしらの変化や刺激がそこにはきっとある。
 (ちなみにここで作業の中に「バイト」を挙げないのは、俺がバイトに対しては別に熱量をもっていないからである。もちろんバイトと言えど仕事である以上、きちんとやる。だがそれは労使関係を結んでいるからに過ぎず、責務を果たす代わりに、労働者としての権利を請求するためである。そこには何の情も熱もない。)

 そんなわけで今日も小論を書く。余裕をもって取りかかったためか、思っていたよりも進捗は良い。論文の基本骨子である「問い→主張→論拠」を提示する作業は終わった。あとは主張間の論理がしっかりしているか、論文全体がひとつの論理として完結できているか、無駄な部分はないか、誤字脱字はないかといったチェックや、参考・引用文献表の作成といったところである。個人的にここからの作業が一番面倒臭いため非常にダルいが、俺がやりたいことのためにはやらなければならないことなので、やるしかない。ぴえん🥺。
 それに、今書いている小論文は、あくまで俺にとってだがかなり満足度の高いものになっている。別に革新的な主張があるわけではないが、俺がこれまでやってきたことの現時点での集大成になっている。これを卒論として出しておけば教官もあんな渋い表情をしなかっただろうに…。この小論文をさらに拡張させていって(誰に見せるでもないが)きちんとした論文として完成させたいくらいである。えっへん😎。
 とは言いつつも、専門の人から見れば「なんだ、まだそんなことやってんのか」というレベルだろう。それは確かにその通りである。その理由は俺がやっている分野の特徴にある。この分野(「徳倫理学(virtue ethics)やメタ倫理学(meta-ethics)と一応言っておく)は哲学・倫理学でも、比較的最近になって注目されてきた分野であるため、やっている人があまりいない。
 メタ倫理学英米圏では一時期かなり注目されたため蓄積がそれなりにあるが、日本ではなぜかほとんど話題に上がらない(言及される機会が少なかっただけで、全くないわけではない。しかし、少ないものは少ない)。そんなわけで、書籍も論文も悲しくなるほど少なく、「そんなこと」をしておくのが現状関の山なのでである。もちろん、俺の圧倒的勉強量不足により、より先端の研究に触れられていないという事実もあるのだが…ぴえん。

 単純作業が嫌だという話からだいぶ内容が変わってきたが、僕の話というのはいつもそんな感じなので許してほしい。さて、というわけで今日も作業をこなしましょう。