犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

おくすりのめたよ

 拍動がおかしくなる時が多々ある。別に心臓のあたりがおかしいわけではないので、すぐさま病院に駆け込むようなことはない。しかし、体の至るところで脈が変に波打つ。例えば頭、こめかみ、腕、太もも、ふくらはぎ、などなど。特にこめかみは酷い。
 よく漫画などで見られる「ビキッ」と青筋が浮き出るような、そういった感じではない。ただ「ドクンッ」と脈打つのみだが、そうなると一瞬頭が真っ白になり他のことが考えられなくなる。そうしたことがままある。
 このような状態は今に始まったことではない。いつからこうなったのか、そんなことはもう覚えていない。いちいち覚えていたらキリがない。俺はストレスへの耐性が弱すぎたり、神経質すぎたりするのだろう。すぐに人への怒りや失望、それによる疲労感が湧いてくる。そうなると何も手がつかず、なんとか手をつけたところで何も頭に入ってこない。ただただ無意味な時間を過ごすのみである。

 このような状態でいたいわけではないので(あといつも飲んでいる薬がちょうど切れたので)、先日いつもの病院に行ってきた。いつもなら、前回通院してからの経過を伝えたり、細かな変化を述べたりするだけだが、その日は思い切って相談してみた。このような不可思議な脈は、ストレスによるものなのか、それとも誰にでも——特に異常のない、健康な人でも——起こりうることなのか、と。
 先生の話では、そういったことは自律神経の乱れにより起こるらしい。曰く、興奮しすぎた神経を抑えるために、副交感神経が働くとのこと。その際に出てきた分泌物質がセロトニンである。セロトニンね、もう何回聞いたか分からんわ。あくまでこれは俺個人の感覚だが、俺のセロトニン関係の器官はほぼ壊れている。それが分泌する側か、受容体かは分からんが。もう何年もこの調子でやってきており、薬を飲み続けているにもかかわらず、以前の状態に回復していない以上、これは一時的な症状なのではなく、何かが欠落した状態なのだろう。いわば、五体満足であった人間が、事故により片脚を切断したような状態である。以前のような生活は、なんらかの補助なしでは望めない。
 たしかにこれは言い過ぎかもしれない。俺は元々このような人間だったのかもしれない。人間嫌いで、ペシミスティックで、世の人間は悪辣な者共ばかりだと諦観していたのかもしれない。イラッとすることがあれば脈が乱れ、頭がフリーズし、他のことが何も手につかず、ただただ怒るか、無気力に浸る人間だったのかもしれない。俺が元々はどんな人間だったのか、もうそんなことは分からない。ただ少し分かることがあるとすれば、以前と今ではいろいろな好みが変わり、昔は大好きだったことも今では興味をそそられなくなったことだろう。もちろん、その逆も然りで、以前は興味がなかったことでも、今では面白いと思えることもあるのだが。

 また脱線してしまった。先生に自分の状態を説明した。なんにしろ、目の前のことにロクに集中できない状態が続いている、だから薬を寄越せ、と。先生は当然処方を渋る。薬に依存するのを防ぐためである。しかし、それは俺からすれば見当違いなのである。
 ある意味で、俺は薬に頼らなければ、まともに作業に取り組めないのである。それは片脚を失った人が、義足を用いなければ歩けないのと同様のことなのだ。片脚を失った人が、車椅子も松葉杖も手すりもなしに、どうやって歩行できるというのか。それと同じ話なのである。もうこの状態が「回復」するものだと俺は思わないし、思えない。「改善」はできるだろうが、それは対処療法でしかなく、根治はありえないのである。
 仮に、根治できるものであったとしても、それに向けて努力をするのはあまり良い策だとは思えない。治療に大きな労力を割くより、俺は他のことにその労力を割きたい。薬で不調がカバーできるなら問題ない。俺の目的はこの状態から完全に回復することではなく、自分の状態がどうであろうと、俺のやるべきこと・やりたいことをやることだからだ。

 そんなわけで、薬を変えた。今度のものは最近出てきた薬らしく、色々と制限があるらしい。どんな薬だろうと、効きさえすればそれでいい。その薬が本当に効くか効かないか、その薬に依存するかしないか、などはここでは問題ではない。俺はあの状態を抑えられれば、それでいいのだから。