犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

メモ:道徳への違和感その1

 カントは次のように語った。「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と。そしてその上で嘘に関する議論を持ち出した。

 ある殺人鬼があなたの友人を追っている。友人はあなたの家に飛び込んできて、殺人鬼から匿ってほしいと頼む。あなたは了承し、友人を匿う。その後殺人鬼があなたの家にやってきて、「ここにこんな奴(つまり、あなたの友人)がやって来なかったか?」と訊く。さて、あなたはどうするべきだろうか。

 ここで多くの人は直観的に(当たり前に考えて)「そんな人は来なかった」と答えるだろう。少なくとも、「ああ、その人ならほら、あそこのクローゼットの中にさっきからいるよ」なんて言わないはずだ。しかしカントは違う。正直に、友人を匿っていることを告げるべきだと言う。なぜ正直に答えなければならないのか。それは、嘘をつくという行為は「普遍的な立法の原理として妥当し」得ないから、である。

 もし「嘘をついてもよい」というルールが認められたなら、私たちの社会生活はほとんど崩壊する。私たちの日々の生活はお互いを信用することで成り立っている部分が多い。ここに「嘘をついてもよい」というルールが導入されてしまったなら、私たちの生活は立ち行かなくなるだろう。


 「必要な場合には嘘をついてもよい、というルールならいいのではないか」と思うかもしれない。しかしこの意見はカントからしても、またカントでなくても認められない。まず、この「必要な場合には」のように、道徳のルールにある条件を設けることをカントは認めない。そのように条件を設けてしまっては「普遍的な立法の原理」にはなり得ない。如何なる条件がなくとも成立するからこその「普遍的な立法の原理」なのである。
 また、カントでなくとも「必要な場合には嘘をついてもよい」をルールとして認めるには難がある。例えば、あなたが前から欲しがっていた服が、偶然数量限定で販売されていたとしよう。だがあなたの手元にはその服を買えるだけのお金はない。誰かから借りるにしても、返せるアテはない。こうした状況下で「必要な場合には嘘をついてもよい」というルールが認められているとしたら、あなたはたとえ返せるアテがないにもかかわらず友人や家族から金を借りても何も問題ないことになる。だが、この話はやはりどこか間違っているように思われる。ルールは破っていないにもかかわらず、何かがおかしい、と感じる人が多いだろう。


 カントの嘘にまつわる議論は多くの反論を呼んだ。しかしカントはそうした反論に涼やかに応答する。「嘘をつかないことと正直に話すことは違う」と。つまり、殺人鬼が友人の居所を訊いてきたとしても、あなたがその前日にある店で友人と会っていたならば「ああ、あの人なら(昨日)あの店で見かけたよ」と答えればよい。そうカントは答えた。もちろん、()内は決して口に出してはいけないが。これなら嘘をついていないし、友人を守ることもできる。実際カントは宗教裁判にかけられた際、このように嘘はつかず、しかし真実をありのままに語ることもなくやり過ごした。「嘘をついてはならない」というルールを守りながらも、決定的な危機を回避することは可能なのだと、彼自身が示してみせたのである。

 しかし、これは本当に正しい行為と言えるだろうか。たしかに嘘をついてはいない。その意味ではルールの遵守には成功している。しかし、「嘘をつかないが、真実も話さない」というのは処世術の一つに過ぎず、むしろこの種の不誠実さは道徳の観点から認めてはいけないものではないのか。そもそも、このような手順を踏むくらいなら、初めから「殺人鬼から追われている人は(特にその人が友人であるならば)守った方がいい」と考えて動けばよいのではないか。
 僕はカントの本をよく読んだわけではなく、嘘に関する議論も宗教裁判の話もどこかで見た程度の話であり、間違いもあるかもしれない。しかしこの議論の中には何かしら見逃しがたいものがあるような気がしてならないのである。