犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

ペット

 僕は動物が好きである。犬や猫はもちろん、トカゲやヘビ、ハリネズミなどなど、挙げていけばキリがない。もちろんその中には例外もあるだろうが、僕は大概の生き物が好きだし、彼らを愛らしく思う。飼いたいとも思っている。飼育が難しい動物では、彼らに十分な暮らしをさせるどころか、不幸な生を強いることになってしまうだろう。僕のような人間——つまり、収入が低く、かつ安定もしていないような生活を送っている人間——では、飼育が難しくない動物ですら飼うのは躊躇われる。しかし、やはり飼いたい、一緒にいたいという気持ちは確かにある。

 その一方で、「動物を飼いたい」と思うときに、ある物憂さも浮かんでくる。それはつまり、「確実に彼/彼女らとの別れがやってくる」というものである。生には制限時間がある。その上彼/彼女らは、僕の身に何かが起きない限り、ほぼ確実に僕より早くこの世を去ることになる。彼/彼女らの死を、僕の方はこの世に取り残されたまま見送ることになる。それはとても辛いものだ。人間も含めて、生きてさえいれば、たとえ遠く離れていようと通じ合うことは可能である。しかし、死別は離別とは異なる。もう話せない。声も聞けない。相手の仕草を見ることもできない。もう二度と、楽しい時間を共に過ごすことはできない。それを考えると、動物を飼うことに対して辛く悲しい気持ちが徐々に膨らんでいく。

 そのような悶々とした気持ちを、動物と接する度に感じていた。こいつらと一緒に入れたらきっと幸せだろう。だけど、いつかは別れなくちゃいけないんだよな。なら、初めから飼わない方がいいんじゃないか——。そう考えていた。だが、そうした考えも最近は変わりつつある。確かに、生き物である以上命には限りがあり、必ず別れの時が訪れる。それは不可避である。しかし、本当に悲しさしか残らないのか。そうではない。別れはとても悲しいものだが、出会えたからこそ得られた喜び、楽しさがあるはずだ。「得られた喜びの方が悲しみに勝るから、飼った方がいい」などと言うつもりはない。喜びは喜び、悲しみは悲しみでしかない。それらを比較して、結果的にプラスかマイナスかなんて考えることはできないはずだ。

 得られた喜び・悲しみは、それぞれそのままに存在する。喜びは快いもので、悲しみは苦しいものだ。だが、出会えていなかったならば、それらの喜びも悲しみも存在できなかったものである。以前とある飼い主さんが次のようなことを仰っていた。「こんなに別れが苦しいのならば、出会わなければよかったのか? いいや、それは違う。たとえ別れがやってこようと、自分はこの子に出会えてよかった、と間違いなく言える」。僕もそう思う。出会わない方が良かったはずなんてない。たとえ回避できない悲しみが待っていようと、その子と共に過ごした時間は他の何にも代えがたい、かけがえの無い大切な時間なのである。


 残念なことに、今の僕では犬や猫を飼えそうにない。自分のことでさえ手一杯な現状では、ペットを飼ったところで彼/彼女らに辛い思いをさせてしまうだけである。だがいつか生き物を飼えるような状態になり、もし何かの生き物を飼うような機会が訪れたとしたら、その時は思いっきり一緒に楽しい時間を過ごしたい。たとえ涙に暮れる日が必ず来るとしても、その時までずっと「なんだこの飼い主www」と思わせられるくらい楽しませてやりたい。そんなことを考えていた。