犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

【雑記】ルール——校則、部則

 小さい頃は、学校の先生は怖かった。特に小学校はそうだった。彼/彼女らは子供がうるさいとすぐに怒る。黒板や机、床といった物を叩き、蹴り、大きな音を出すことで子供たちを恐怖させ、黙らせる。そうした彼らのやり方が、幼いながら不思議ではあった。なぜそんなやり方しかできないのだろう、と。
 もちろん、言って聞くような子供ばかりではない。「静かにしなさい」と言っても静かにならない、授業が進まないから彼らは怒る。しかし、その方法が本当に正しいのかどうか、当時から僕は疑問に思っていて、今でもその疑問は解決していない。
 そんな大人たちを見るうちに「この人たちは、とにかく僕たちを黙らせたい。だから大きな音を立てるんだ」と思うようになった。なんてことはない話である。気に入らないこと、思い通りにならないことがあるから力で黙らせる。それが、それだけが唯一彼/彼女らに許された方法だったのだ。それに気づいたのは小学生も終わりの頃だった。
 おかげで中学・高校の先生たちも別に怖くはなかった。だからといって別に馬鹿にしていたわけではない。一緒にいて楽しい先生、面白い話をする先生もいた。尊敬すべき先生方ももちろんいる。彼/彼女らのことはもちろん好きだったし、今でもそうである。ただ好き嫌いと、怖い怖くないは別の話だというだけだ。


 「先生を恐れる理由は特にない」と思ってから、僕は色々なルールや規則の妥当性に疑問をもつようになってしまった。たとえば、なぜ廊下や階段に座って談笑してはいけないのか、なぜ携帯を持ち込んではいけないのか、なぜ制服をきちんと着なければならないのか、などなど。自明とはいえない根拠からなぜか正当化されている校則があった。(とはいえ、上に挙げた校則・ルールは根拠を示すことができる。だが、絶対にやってはいけないものでもないだろう。)
 なぜ先生たちはこんなことで怒るのか。
 「廊下や階段に座ると人の邪魔になるから。」僕のいた中学は廊下がかなり広く、学年集会にも使われていたほどだ。その廊下の端の方で数人座るぐらい、誰に迷惑をかけるでもなかろう。
 「携帯に意識が向いて授業に集中しなくなるから。」それは当人の問題である。携帯を持ち込みと、授業への集中の度合いは必ずしも相関しているとは言えない。
 「服装は他人に与える印象を大きく左右する。だからときちんと着るべきだ。」確かにそれはそうだろう。外見は内面の一番外側、という言葉もある。社会に出ればまずは見た目で判断される。故に制服をきちんと着こなすことは重要である。
 しかし、服装を先生たちが一律に検査する意味が、いったいどこにあるのか。服装の乱れによって一番悪影響を受けるのは、服装を乱している当人である。先生たちにはなんら影響はないはずだ。もちろん、そういう生徒がいると周囲の住民に知れ渡れば、学校の評判は悪くなるかもしれない。だが、学校の名誉のために生徒の自由を侵害する権利が、本当にあるのだろうか。あるとしても、どこまで侵害してよいのか。このような疑問が当時の僕にはあったし、今でも少しはある(といってももう校則に縛られるような立場ではないので、そこまで興味はないが)。


 こうした疑問は大学においてもあった。理由も根拠も不明なままに、正当化されているルールがある。なぜそんなルールに従わなければならないのか、僕には理解できなかった。「控室では弓道関連以外の本を読んではならない」確かに一理あるだろう。控室、ひいては道場は弓を引くための場所である。決してダラダラ過ごすための場所ではない。しかし、「弓道関連以外の本」には教科書等も含まれる。それらを読み勉強することが、果たして本当に「ダラダラ過ごす」と言えるのだろうか。
 また、ここに「閉場間近ならば待たねばならない」というルールが加わるならば更に話は変わる。閉場間近といえど、それがいつになるかなど分からない。数分〜十分程度ならまだしも、数十分も他人の時間を奪う権利がいったい誰にあるのか。待たねばならないならば、せめて自分の授業や専門に関係のある本ぐらい読んでもよかろう。
 「時間を有効に使え」という教えは、この混乱した状況を完全な矛盾へと追いやる。限りある時間を有効に使おうとすれば、「そんなことを道場でやってはいけない」と諭される。僕らに許されているのは、ただ時間を浪費することだけだ。練習を終え、後は帰るだけの部員をただ何十分も道場に置いておく理由が、どこにあるというのだろうか。
 「別に部則で決まっているわけでもない。ただお前がそう思い込んでいるだけだ。」そうかもしれない。しかし、これは僕以外の部員も認める暗黙のルールである。そして暗黙とはいえ、ルールはルールだ。その集団の内部にいる者たちが受け入れているなら、そのルールは明文化されていようがいまいが、機能せざるを得ない。
 ここまで部内の規則に関する不満を書いたが、これはもはや過去の話である。僕が現役だった頃にも、そして部を去った今でも、こういった理由も根拠も不明な規則は徐々に改善されている。そうした問題意識をもち、行動に移した諸先輩や同期、後輩は立派だと思っている。良くも悪くも伝統を重視する体育会において、このような行動を起こすのは決して容易ではない。彼/彼女らの行為は十分に賞賛されるべきものだろう。


 他に書きたいこともないのでここまでにしておく。まとまりのない内容になってしまった。雑記なので——そもそもブログなどすべて雑記、ただ書かれたものに過ぎないが——こんなものでもよいだろう。この記事で挙げた例は校則や部則など、かなり限定的な規則にすぎない。しかし、僕らの社会生活の中では、これと類似した、意味も理由も分からない、もっと言えば無意味なルール・規範が横行している。曰く、「男なら泣くな」「女ならおしとやかにしろ」など。僕はそれが気に入らない。
 気に入らない、という言葉だと感情的に聞こえるかもしれない。より正確に述べるならば、「今あなたが適用しようとしているルールの根拠を、合理的に、筋道立てて説明してください。それができないならば、そのルールはルール足り得ません」といったところか。ここでいう「合理的に」とは、「十分に頭を働かせて考えた結果、納得・理解できるように」というような意味である。(なお、「合理的に」納得はできるが、直観(=僕たちの素朴な感覚)に反する、という場合も実はあり得る。しかしここでは、その議論には立ち入らない。)
 このように、合理的でない・理屈が通らない規範がまだまだ世界にはある。そうしたふざけたルールを壊してしまいたい気持ちがある。この気持ちも、僕が研究する理由のひとつである。