犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

近況報告

 ツイッターのTLを見ていて「もう理系は院試終わったのか」と驚く。俺は試験すらまだ始まっていないし、その結果が出るのは10月である。このあたりのマイペースさが文学部らしいといえばらしい気もするので別にいいのだけど。そういえば同期も9月前には院試終わってたなぁ、あんまり覚えてないけど。

 院で何を研究しようかということをずっと考えている。正直言って本学文学部の院試は(おそらくだが)この「何を研究するのか」が一番問題になる。受験とかに当てはめれば得点源とでも言えばいいのか、とにかくここがとても重要である。本当に自由放任であるからこそ、「お前は何がしたいのか、何をやるのか」を自分で決めてやることが大切になってくるからだろう。院試云々を抜きにしても、研究目標は大事になってくるのは明らかだ。
 いつかのブログでは「俺がやるのは既存道徳の批判と修正だ」と書いた。そのつもりでしばらく勉強していたが、やっていくうちに「本当にそれでいいのか?」という疑問も湧いてきた。あんまり細かいことを書いてもしょうがない気がするので詳細は省くが、俺がやりたいのは「既存道徳から一歩引いた位置からの、批判と修正」なのではないか、という思いが出てきた(これは一応卒論でも扱ったテーマである)。それで「結局俺がやりたいのはどれなんだ? こんなんでやっていけるのか?」と悩んでしまって、しばらく体調を崩していた。

 ただ最近ずっと考えてたこともあって、少しずつだがやりたいことが固まってきた(ような気がする)。そもそもの問題として、道徳に関する俺の問いに「なぜ人は道徳的に善いことをするべき・した方がいいのか」というものがある。それに対する(今のところの)答えは、「善く(幸福に)生きるためだ」というものだ。人格への尊敬の念から義務に基づいて行為するのも、出来るだけ多くの人々の利益を増加させようとするのも、すべては「善く生きるため」なのである。それも、"その行為を行った当人"が「善く生きる」ために、人は道徳的に善いことを行うべき・行った方がいいのだ。
 これは利己主義のようにも聞こえるかもしれないが、そうではない。幸福の構成要素のひとつである「他者との深く親密な関係性」「そのような関係性を築くために必要な性格的特性」を欠いた生活では、「善く生きる」ことなどできないからだ。
 非常にざっくりとした説明だが、このようなことから研究目標としては「行為者が幸福に生きるための倫理学理論の研究」を行おうと思う。用語としては「行為者基盤的(agent-based)徳倫理学」といったところになるかと思う。「具体的にどんなことやんねん、ホンマにそんなことできんのかいな」と思われるかもしれないが、それは俺の修論できっちり明らかになるだろう、おそらく、たぶん、きっと。

 ちなみに徳倫理学は「なんでも色々がんばった」で有名なアリストテレスに端を発する。またそのアリストテレスの先生の先生であるソクラテスは、人が善く生きるために「魂(プシュケー)への配慮」を説いていた。そういうこともあって俺はツイッターでときたま「魂」という言葉を出したりする。ここでいう「魂」とは霊的なアレではなく、平たく言えば「人間性」みたいなものである。


 自分で書きながら半分を越えたあたりから若干飽きてきたので、あまりまとまりがなかったり理解しづらかったりするかもしれないが、あったらごめんなさい。めんどいので終わり。