犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

汝罪ありや?

 「無知は罪である」という言葉がある。曰く、知るべきこと、知っているべきことを知らずにいるのは悪だ、と。なるほど、一理あろう。一流レストランでテーブルマナーを知らずに食事を行うのはみっともなく、恥ずべきことだろう。卑近な例を挙げるなら、火曜日が家庭ゴミの日だと知らずに水曜日に家庭ゴミを出してしまったならば、ゴミ収集業者や近隣の住人の迷惑である。
 一流のレストランで食事をするならば、それ相応のマナー・作法が求められる。ゴミ出しの日も知っていなければ迷惑がかかる人もいる。無知は、知らずにいることは、確かに罪かもしれない。しかし、本当にそうだろうか。「無知は罪なり」と言って終わらせた気になってしまっていることが、僕らにはあるのではなかろうか。

 まず、なぜ「無知は罪である」のだろうか。「無知は罪である」は本当に正しいのか。この検討から入ろう。無知が罪であることを示すためには、幾段階かの論証を経ねばならない。恐らく、以下のような形になるはずだ。

①:ある人物Pはある行為Qについて、何も知らない。
②:PはQをしなければならない状況にある。
③:①より、PはQを行う術を知らない。
④:③より、PはQを適切に行えない。
⑤:②と④より、Pは為すべきことを為せない。
⑥:故に、Pには罪(悪)がある。

 さて、この論証は本当に正しいのだろうか。①〜③は無視して良いだろう。これらは「状況設定」である。①〜③のような状況を想定することで初めて、「無知は罪である」という言明の真偽を問えるようになるのだから。問題は④と⑤、そして結論である⑥である。
 それでは、④と⑤の妥当性はどうだろうか。これは問題ないように見える。例えば(貧弱な例で申し訳ないが)文系である僕が、旧課程数学Ⅲ・Cの問題を解かねばならない状況にあるとしよう(=②)。僕は別に数学Ⅲ・Cを学んだわけではない、故にどのような内容なのかを知らない(=①、③)。そのため、僕は数学Ⅲ・Cの問題を出されても解くのは難しいだろう(=④、⑤)。①〜⑤の前提にはなんら問題が見当たらない。では、結論である⑥、つまり、僕に罪はあるのだろうか。
 それは筋違いというものだろう。僕は別に数学研究者ではないし、理系ですらない。故に、Ⅲ・Cの問題が解けないからといって僕に罪があるとは言えない。ここで「Ⅲ・Cの問題を解かねばならないのに、理系じゃないから解かなくていい、なんて理屈があるか」と思われるかもしれない。しかし、「Ⅲ・Cの問題を解かねばならないこと」と「理系であること」は無関係である。事実、理系であるがⅢ・Cを必要としない人間もいる(看護学科などがそうだろう)。それ故、僕がⅢ・Cの問題を解けないとしても、僕にはなんの罪悪もない。故に、⑥は誤りである。また、ここまでの議論が正しければ、①〜⑤から⑥を導くことは誤りである。そのため、「無知は罪である」もまた偽、つまり誤りである。

 ここまでに僕が行った議論が誤っている可能性はある。異論を挟む余地もあろう。しかし、せいぜいが「無知が罪である、とまでは言えない」といったところだろう。知らないことを適切に行えなかったとしても、悪いとまでは言えないのである。
 思うに、本当に罪であるのは「誤りを許容しないこと」と「誤りを認め、その誤りを正さないこと」である。仮に無知が罪であってもよい。無知であったことを理解し、それを直そうとすればよい。無知であった当事者と、その当事者を取り巻く関係者の双方が、自身の考えを改める必要がある。本当に「無知は罪である」で思考を止めてよいのか。無知を批判して、話を終わらせてしまってよいのか。考えることを止めてしまってはいけない。それこそがなににも増して認め難い「罪」なのだから。

 ……さて、この「考え続けなければいけない」という結論でこの問題に終止符を打とうとしている僕は、果たして「罪」から逃れられているのだろうか?