犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

性格診断

 以前就活していたときに、自己分析の一助になればと利用した性格診断サイトからメールが来た。気まぐれにやってみたが意外と面白い。暇つぶし程度にはなるだろう。よくこういった性格診断に関して「誰にでも当てはまることを書いてるだけ」と言われることがある。その通りかもしれない。
 だが、僕の考えからすれば、それはどうでもいいことだ。そのテストは、正確に性格診断しているわけではないかもしれない(これは洒落である)。だがそうだとしても、友人や知人との会話の種にはなろうというもの。診断結果の真偽より、そうした会話の創出に、こういった診断は真に役割を果たすのだろう。
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 また性格診断について思うことがもうひとつある。それは、診断の質問に回答するその人の心情によって、診断結果に多かれ少なかれ差があるはずだ、というものだ。僕が2020年4月11日に回答したものと、2018年4月11日に回答したものとでは、恐らく大きく結果が異なる。希死念慮が頭から離れなかったあの頃と今とでは、精神状態が大きく異なる。180度変わったと言っても過言ではない。そしてこのことから、あるひとつの問いが浮かんでくる。それは、「今の自分とあの頃の自分、果たしてどちらが本当の自分なのか」という疑問である。
 今の僕は、悪く言えば薬によって精神を上向きにさせている。外的な力によってもたらされたこの心の状態は、果たして本当に自分自身の心だと言えるのだろうか。前の、ただただ死ぬことしか考えられず、世に人に絶望し、何に対しても何の感情ももてなかった頃の僕こそが本当の自分なのではないか。そう考えることも多々あった。

 だが、恐らくこの問いは無意味である。そも、僕が精神的に落ち込んでいたのも、外的な要因によるものである。精神状態が上下した原因が自分の外部にあるものであるならば、たとえそれらの量や質が違っていようとも等しくその効力を評価すべきだろう。
 さらに決定的なのは、落ち込んでいようとも前を向いていようとも、どちらも本当の〈僕〉である、という事実である。これまで25年余り生きてきた自分以外に〈僕〉は存在しない。これまでの生きてきた結果として、今の〈僕〉が在るのだ。また、どのような精神状態にあろうとも、そのときの自分こそが〈僕〉であり、〈僕〉でしかない。
 この「〈僕〉であるということ」を、仮に「自分性」と名付けよう。この自分性は、3つの尺度で測られ得るだろう。すなわち、「連続した時間の中での自分」「あるひとつの時点における自分」「他者と関わる際の自分」の3つである。これらは初めのものからx軸、y軸、z軸を用いた座標空間をイメージするといいかもしれない。
 この自分性はそのときどきによって変移する。「5歳のときに仮面ライダーの話を友達とする自分」と、「23歳のときに心療内科の先生に相談する自分」、そして「25歳のときに1人でブログを書いている自分」では、その精神状態は異なる。自分性とは、常に定数が変わり続ける3軸の値によって決まるため、どれひとつとして同じものはない。つまり、「本当の自分」など在って無いようなものなのだ。これまでの人生という座標空間内に打ち続けた点の集合が「本当の自分」であると同時に、この先の人生にも打ち続けるであろう未だ無い点の集合もまた「本当の自分」である。
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 ひどく青臭いことを書いているのは自分でも分かる。夜にこんなことを書いているからだろうか。それは違う。僕は夜でなくとも、こんなことを考えている。薬によって正気を保つ自分と、投薬せずに絶望に沈む自分のどちらが本当の自分かなど、昼夜問わず幾度となく考え、苦しくなることもあった。どちらの自分でいるべきなのか、そんなことを考えまた絶望の淵を覗き込むこともあった。
 だが、今となってはそんなことはもういい。これまでの全ての自分が、本当の自分だったのだ。そしてこれからも在るだろう自分もまた、本当の自分である。この先の自分がどうなるかなど分からない。また死を願うようになってしまうかもしれない。そしてそんな自分を否定したり、肯定しようとしたりするかもしれない。だとしても、僕はそれを受け入れようと思うし、受け入れるしかない。そのときはそのときである。これまでだって、そのときにできる範囲内のことを、僕はやってきたし、逆に言えば範囲内のことしか出来なかった。今後もきっとそうだろう。しかし、それでいいのだと、最近は思うのである。