犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

人間嫌いに関するアレコレ

 とある日のこと。僕はあるコーヒーチェーン店で本を読んでいた。その日は全国的に特に寒いとの予報が当たり、外も寒ければ店内も閑散として寒々しいものだった。そんな中で、僕の2つ隣の席に座る男性が、カチャカチャとゲームに熱中しながら独り言をずっと呟いていた。

 ゲームすることには何の問題もない。カチャカチャ音もまあよい。店内には他に、パソコンのキーボードを打っている人もいた。カチャカチャ音もそうした環境音の1つだし、キーボードを打つ音と大差はない。

 だがしかし、静かな店内で1人、ずっと呟き続けているとはいったいどういうことだろう。周りには僕以外にも客はいる。たまに漏れるならまだ許そう。だがそういつまでも続けられては、さすがにこちらも気が滅入ってくる。単純に、僕はその人にイラついていた。

 

 モラルのない人間は世の中に一定数存在する。歩きスマホをする人。車道にはみ出してまで横に広がって歩く人。電車やバス内で場所を詰めない人。夜更けに掃除機や洗濯機を使う人。店員に横柄な態度をとる人。煽り運転をする人。公共の場で、周囲を顧みずに行動する人々。

 そのような人々を、僕は大学に入るまで大して気に留めていなかった。というか、ほとんど視界に入っていなかった。中学・高校と周囲の環境は変われど、自分の周りにいる人たちは本当に良い人ばかりだ、自分は人間関係に恵まれている幸福な人間だ、とすっかり思い込んでいた。

 しかし浪人期や、特に大学入学以後はそのような無邪気な考えも無くしつつあった。周りにいる人間のさまざまな悪性ばかりが目につくようになり、厭世的な考えが支配的になっていった。そのようなことばかりが頭にこびりつき、いつしか人間が大嫌いになっていた。

 公共の場で周りへの配慮を忘れる、あるいはそうした配慮の必要性自体を理解できない人間が、世間には実際にいる。それは動かしがたい事実だ。だが、そうした人間がいることも承知で、僕は社会に参画しているはずではなかったのか。少なくとも、原理的にはそうだ。民主主義社会とは、自律した個人の集団から成る。僕は異質な他者との共存を承認した上で、自分の意志でこの社会にいる。

 だから、これは仕方のないことなのだ。本当にもう人間が大嫌いならば、山にでも籠もればいい。それができない以上、人間の悪さも引き受けた上で暮らしていかなければならない。そう言い聞かせてきた。

 実際、例の男性に「ゲームをやめろ」というのはお門違いであり、なんの解決にもならない。たしかに、僕が注意することでその男性はゲームをやめるかもしれない。そうすれば僕の気も晴れるだろうし、他の客の心も少しは安らぐかもしれない。

 しかし本当に問題なのは、僕が多様な趣味嗜好をもつ他者を受け容れられるかどうかだ。他人がどうこうではなく、あくまで自分自身の問題である。ゲームをやめさせたところで、それは一時的な不満の解消であり、僕自身の問題解決を先延ばしたに過ぎない。

 この他人への嫌悪は、僕の早とちりである可能性も大いにある。実際、およそ理解し合えないだろうと思われる人でも、よくよく話してみると意外と通じることは往々にしてある。彼もそんな1人かもしれない。話せば分かる人かもしれない。

 だがそんなことをしても意味がない。彼と話して彼と分かり合えたところで、また別の理解できない人が現れる。そのときにまた僕は、その人と理解し合わなければいけないのか? そんなことを一々やっているうちに、人生などすぐに終わってしまう。

 コミュニケーションをとることは、やらなくてよいことでは決してない。相互理解を図ることは、生活のあらゆる面で重要だ。だが人生は有限だ。リソースに限りがあるならば、優先順位をつけて利用していかなければ、本当に大切なものを見失ってしまう。そのリソースが時間などといった、持ち越せない保存の効かないものならば尚更である。

 

 「やはり人間には厭な気持ちにさせられる。だがそれもしょうがないことなのだ」と自分に言い聞かせる。イラつきを抑えつつ、読書に戻ろうとする。そのときにふと、次の考えが浮かんだ。それは「俺は自分の周りの人間を嫌っているが、それは何を、どこまでを指すのか」という疑念である。

 僕は大学入学以降に人間嫌いが加速度的に増していった。その結果周囲の人には非常に攻撃的な態度をとり、不快な思いをさせた。当時の僕の様子を見ていた、高校からのある友人は「お前大学にいられるのか(あんなに悪態ついて周りの人間とやっていけるのか)?」と尋ねたほどだった。

 こうした人間嫌いは、僕が僕自身の周囲の人間に対して向けていたものだった。だがこれは本当に正しかっただろうか。もちろん、そうした行為は不当である。感情任せに他人に当たってよい理由などないと、直観的に判断できる。

 しかし、このような直観によらずとも、僕の行為の是非を判断できる余地があるのではないか。つまり「僕の周囲」とはどのような空間を指し、それはどの程度の広がりをもつのか。ここは理屈に従って、改めて考えなければいけないのではないか。そんな問いが浮かんだ。

 では、「僕の周囲」とはどのような空間だろうか。まず、その空間とは「僕の人間関係」と同義であろう。ではどのような人間関係か。ごく身近な人間関係か? …まぁ、否めない部分はある。色々と波乱含みだったのだから。自分が直接的な原因だった部分もあれば、間接的な部分もあった。しかし本当にそれだけが「周囲」だろうか?

 

 僕が自分の人間嫌いを痛感するのはいつだろう。それは体感だが、「自分とほとんど、または全く関わりのない他者といるとき」である。歩きスマホ、はみ出し歩行、煽り運転、他者への無配慮。これらは僕のごく身近な人間が起こしているのではなく、見知らぬ他人が起こしているものである。それらに対して僕は、強い嫌悪感を抱くのだ。

 これは僕の単なる直観に過ぎないのかもしれない。しかし実際、僕の身近な人々はモラルやマナーを重視し、自分以外の人にも意識を向けられる立派な人格をもつ方ばかりである。こうした経験的な事実から、身近な人とそうでない人との区別もつけられる。絶対確実とは言えないにせよ、こうして「僕の周囲」が何かは分かった。しかしこの疑問に紐づいて、次の疑問が浮かんでくる。それは、なぜ僕が人間嫌いになっていったのか、である。

 

 僕が人間嫌いを拗らせたのは大学入学からである。であるならば、そこに何かしらの原因があると見てよいだろう。僕の身に起きた、高校までと大学からとでの大きな変化とは何か。それは、生活する環境の変化である。かなり大雑把な言い方になるが、高校までは田舎、大学からは都会と、生活環境はかなり変わった。そして生活環境の変化は、人間関係の変化も引き起こす。

 田舎では人間関係がある程度固定されていて、その中で生活が回る。実際僕は安定した空間の中で、気を許せる友人たちと過ごすことができた。しかし都会の人間関係は流動的である。赤の他人と向かい合い、食事をすることもザラにある。その上僕は今や、見知らぬ他人と同じ空間・時間を共有することの方が多い。

 これは「田舎は良く、都会は悪い」という話ではない。人間のもつ善悪という観点からすれば、田舎と都会に違いはない。ただ大学入学を境に、他人という母数が急に増加したこと、加えて親しい人とそうでない人とで、関わる時間の量に大きな差が生まれたこと、これら2点が僕の人間嫌いを生み、悪化させていった大きな原因だろう。

 

 僕の中にあった1つの疑問——なぜ僕はここまで人を嫌いになってしまったのか——に対する答えは、恐らくこんなところである。こんなことを考えたところで、何かが大きく変わるわけではない。モラルのない人間はモラルのないままだし、ゲームのカチャカチャ音も彼の独り言も止まない。モラルに欠ける人々に、僕は変わらず嫌悪感を持ち続けるだろう。そしてこの他者への嫌悪感から、周囲の人を傷つけてきたことだって変わらない。ただ今思うことは、「やはり俺は人間関係に恵まれているな、恵まれていたんだな」ということである。