犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

口内炎

 前口上として——ブログを書こうと思ってはてなブログアプリを開き、前回の記事の日付を見たら4/29でびっくりした。体感的には4,5日前に書いたような感じしかなかったので、思っていたよりも時間が経っていたことにビビる。もちろん今が5月の10日付近だという感覚はあるのだが、前回の記事からこれほど時間が経っていようとは…不思議なものですね。

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 最近、口内環境が荒れている。原因はビタミン不足と生活習慣の乱れだろう。生活習慣に関しては、正直俺としては手の出しようがない(体調が最悪に近づけば近づくほど不可避的に乱れる、最近はカーテン越しにも差し込んでくる朝陽で勝手に目が覚める、などというように)。なのでビタミンを摂ることにした。と言っても野菜を食うわけではない。もちろん野菜を食うに越したことはない。しかし野菜は値段が高い。苦学生、ならぬ苦フリーターの身からすれば、継続的に摂取するには金がかかる。そこでサプリメントに頼ることにした。

 これが存外効いている。確かに野菜によるビタミン摂取に劣る点はある。経験的に、野菜をバカ喰いすれば1日で口内炎は治る。こちらのサプリは口内炎が治るまで2,3日かかったが、それでも治りはしている。今までサプリに手を出したことはなかったが、そもそも食事への興味が大幅に減退して久しいので、食に対するこだわりはほぼない。今後はこういったものを利用していくのもいいのかもしれない。


 口内炎が治り、俺の口内環境は良くなった、改善された。そこでふと「これで口内環境は健康になったのだな」と思ったのだが、果たして本当にそうか、という疑念が湧いてくる。果たしてこの「問題のない体調」は「健康」と言ってよいのだろうか。もっと言えば、体調というものは「健康」か「不健康」かの2通りの状態だけなのだろうか、と。
 おそらく(実際には)その通りだろう。俺の今の口内環境は「健康」というに相応しい状態である。生活を行う上で支障となるものはない。しかし少し想像力(妄想力)を膨らませてみると、実はそうではない可能性が出てくる。それはすなわち、体調には「健康」と「不健康」と、「過度な健康」の3つがあり得る、ということである。
 「過度な健康」とはどのような状態だろう。思うにそれは、活力が有り余り、何をどれだけしようと疲労を感じることもなく、いついかなるときも溌剌としており、休息も必要とせず、病気や怪我をするなど一切なく、ほぼ永久的に活動し続けられる状態だろう。これはある種理想的な状態と言えなくとないが、どうだろうか。もし仮にこのような状態に人間はなり得るとして、僕らはこれを望むだろうか。「それは願ってもないことだ。是非ともそんな状態になりたい」と望む人間もいるかもしれない。
 だがこれは「健康」の域を明らかに超え出ている。もしこのような人間が身の回りに存在したならば、僕らはおそらくその人に底知れない不気味さや奇怪さを感じざるを得ないし、「このような状態になりたくない」と思うことだろう。
 上で「体調には、(実際には)健康と不健康の2つがある」と書いたのは、このような過度に健康な人間はおそらく(少なくとも僕の知る限り)存在しないからである。仮に、ここまでではなくとも尋常ではなく健康である人間がいるとすれば、その人はなんらかの病気に罹っている可能性が高かろう。つまり、「過度な健康」とは、僕たちの日常的な感覚から言えば「不健康」に分類されるような状態なのである。それゆえ、体調とは実際には健康か不健康かのどちらかなのである。


 この3種類の体調に関する妄想から、さらに連想の幅を広げよう。我々はしばしば「あの人は善い人だ」とか、「そんなのは悪い人間のやることだ」などと口にする。こうした言葉の背景には「人間とは、善い人か悪い人か、そのどちらかだけが存在する」という考えがあるように見える。しかし、本当にそうだろうか。体調と同じように、人間も「過度に善い人」「過度に悪い人」「過度に善くも過度に悪くもない人、あるいは善くも悪くもある人」に大別できるのではないか。

 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に出てくるカンダタが、3つ目のタイプに属しうるだろう。彼は生前殺人や放火、泥棒などを行った結果、地獄に堕ちた罪人である。しかしそんな彼でも、一度だけ善行をなした。それは小さな蜘蛛を踏み殺しかけてやめ、命を救ったことだ。
 もちろん、「殺人・放火・窃盗に比べて、蜘蛛の命ひとつ救ったところでそれがなんだ。カンダタの善行と悪行を比較考量すれば、彼が「悪い人」なのは一目瞭然だし、言うなれば「過度に悪い人」だ」という意見もあるだろう。「そもそも蜘蛛を踏み殺そうとしている時点でダメだ。悪くない人間は、元から踏み殺すことなど考えはしない。よってカンダタは蜘蛛の命を救ったわけではない。悪くない人間が普段行なっていることをしたぐらいで、カンダタに善性を認めるのはおかしい」というのも納得できる。
 たしかにカンダタは、少なくとも「過度な善人」ではなかろう。善人と悪人のどちらかと言えば、間違いなく悪人である。それは犯した罪からも明らかである。蜘蛛を踏み殺そうとしたその意志も、彼の悪さを示しているだろう。しかし、彼は結局その蜘蛛を殺さなかったのだ。一度は蜘蛛を殺そうと考えはしたものの、「やはり可哀想だ」と考え、殺すのをやめたのである。ここに彼の内にある良心の一片を見抜くことは難しくない。彼は悪人ではあると同時に、たとえほんの少しであっても、善人でもあるのである。
 ここではカンダタを例に挙げたが、程度の差こそあれ、人間の多くはこの「善くも悪くもある人」に分けられることだろう。全くの悪を、あるいは善を為したことのない人間が、一体何人いただろうか。仮に善しか為したことのない人がいるとすれば、それは聖人君子というべき存在だろう。そんな人物の話を僕らはよく耳にするが、彼ら/彼女らが実在した、または実在すると素直に信じるのは難しかろう。悪人にしても同様である。[1]

 人間は善くもあり悪くもある、という考えは人によっては自明かもしれない。しかし、少なくとも俺にとっては自明ではなかった。世の中には善人と悪人の2種類だけが存在する。そして人類全体でそれらが占める割合は、悪人の方が圧倒的に多い、と考えていた。さらにその悪人の中には、自分も間違いなく入っている。そう考えていた。だが人間はそう単純ではないのかもしれない。自分の行為を振り返っても、他人の行為を鑑みても、人間は善も行うし悪も為し得る生き物であることは見てとれる。善人や悪人は存在し得るが、それらはその人の、数ある内のある一面が表れたものにすぎない。人間とは、善でもあり悪でもあるのだ。


 …といったようなことをぼんやりと考えていた。ここまでの話を簡略化し、敢えて議論として成立させるならば、「人間には善人と悪人の2種類しかいないのか」というところか。そしてそれに対する結論は、「そうではない。人間はただ1種類のみ存在する。すなわち、善くも悪くもある人間、である」となるだろう。ひとつの問いに対し、ひとつの結論が得られた。ひとまずここで話を終えることにしよう。
 ——だが、ここでまた別の問題を考えてみることもできる。それは例えば、「人間は善くも悪くもあるのなら、善いことと悪いことのどちらを行うべきなのか」といった問いである。「そんなの、善いことに決まっているじゃないか。善いことをした方がいいに決まってるんだから」。たしかに、それは一理ある。「善いことをしなさい」とはあらゆる場面や時代で用いられる道徳的言説である。
 しかし、なぜ我々は善いことをしなければならないのだろうか。あるいは、なぜ「私」は善いことをしなければならないのだろうか。このことは、実のところちっとも自明ではないのである。少なくとも、哲学においてはそうである。
 この問題は「Why be moral?」として知られており、「自己利益と全体の利益の対立」として扱われることが多い。これに関する議論を以下で述べると、この記事はとんでもなく長くなってしまうので省くが、詰まるところ「我々は道徳的に善くあるべき理由は、実ははっきりしていないし、はっきりさせられる見込みも少ない」のである。そしてこの結論から、あるいはこの議論の過程から、またさらに別の議論が起こる…。
 流石に字数も3000近くなってきており、書き始めてから校正込みで3時間近く経ってきて疲れたので、今日はこのへんで終わりにしておく。とりあえず昼飯を食べて、マルチビタミン剤を摂るとしよう。



[1] ただ一方で、悪しか為したことのない人間は、存在し得るし、存在したかもしれない。凶悪な犯罪者というのは実際に存在するし、これまでも存在した。彼らがそのような犯行に至った経緯については様々あり、必ずしも彼らの人間性のみを悪と断ずることはできない。しかし、そうではなく、「根っからの悪人」というのも存在するように思われるケースもまた存在する。


追記
 このブログの記事はスマホから書いているのだが、脚注の付け方が分からない。PCからしか出来ないのだろうか。俺の記事は話の本筋から脱線することが多いため、なるべくなら脚注を好きに使えるようにしておきたいのだが、はてさてどうしたものか……。