犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

覚書

休憩兼頭の整理として。本を読んでいても様々な別の事柄が浮かんできて本の内容が十分に入らない。なのでどこかに書き出し、吐き出すことで頭の中を整理する。

 

話は倫理学の話だ。俺はやはりマクダウェルに近い考えをもっている。正確に言えば、「道徳とは規範化(コード化)不可能なものだ」と俺は思う。そう思う理由について、自分の思考整理を主目的として(ついでにだれか読んでくれたらいいな〜くらいのつもりで)書く。

 

その前に倫理学についての概説をしておく。倫理学と一言で言っても大きく3つのジャンルがある。規範倫理学、応用倫理学、メタ倫理学の3つだ。規範倫理学とは主に義務論、功利主義、徳倫理学といった、「どのように行為することが我々にとって善いことなのか」を問う分野である。応用倫理学は規範倫理学で得られた知見を基に、医療や職業などの我々の生活にダイレクトに影響する事柄について問う分野である。そしてメタ倫理学とは「そもそも道徳とは、善いとは何か」ということを問う分野である。

 

以上が現代倫理学の概説だが、応用倫理学の話は今回はしない。一時期、生命倫理について勉強し遺伝子操作や出生前診断について色々考えていたこともあったが、今はそれほど興味もない。考えてみれば当時もそれらは二次的な問いでしかなかった。俺の根本的な問いはメタに向いていたのだから。

 

メタに向かうにしても初めから道徳そのものを疑っていたわけではない。そこまで天才的な洞察力を、俺は残念ながら持ち合わせていない。そこでまず俺が諸規範倫理学理論に対して持った疑問を説明することで、メタ倫理学に至った経緯を述べる。その上で「道徳のコード化不可能生」に思い至ったことを書いて、本記事は終わることにする。

 

規範倫理学には上述のように、主に3つの理論がある。義務論、功利主義、徳倫理学である。

まず義務論の概説をしよう。 代表的な論者は何と言ってもカントだろう。現代で言えばコースガードなどが有名である。カントの「君の格率が普遍妥当するように行為せよ」という言葉が義務論のなんたるかを物語っている。正直言ってカントは『基礎づけ』を数年前に一回読んだきりなので誤読の可能性は大である。だが、「道徳的な行為とは、仮言的(〜ならば、…せよ)なものではなく、定言的(…せよ)なものでなければならない」という彼の主張を大きく捉え損なってはいないだろう。

この義務論自体カントが唱えた近代から現在に至るまで様々な批判や擁護がなされている。またそれとは別に、「なぜ定言的なものだけが道徳的だと言えるのか」といった素朴な疑問もあるだろう。それに応えるためには、彼の「自律」や「自由」、「尊厳」といった概念に言及しなければならないのだが、それはこの記事の目的ではない。興味を持たれた読者諸賢で各自調べていただきたい。

義務論に対する俺の疑問は次のようになる。それは「あまりにも理想的すぎやしないか?」というものだ。こうした批判自体これまで何度も繰り返されてきたし、擁護や批判的発展もあった。だがこの義務論への違和感はいくら義務論を問い質したところで解消されないと俺は思う。そもそもの道徳観の違いなのだ。俺は義務論とは相容れない。なので却下である。

 

次は功利主義の話である。「最大多数の最大幸福」という言葉を聞いたことはないだろうか。このスローガンこそ功利主義を端的に表している。主な提唱者はミル父子、現代?で言えばヘアやシンガーなどが挙げられる。「社会とは個人の総和から成っている。そのため、各個人の幸福の総和が社会全体の幸福の総和となる」というのが功利主義の主な主張である。

功利主義に対してももちろん様々な議論が行われている。代表的な思考実験としては、「最大多数の最大幸福を求めるならば、ある1人の死と引き換えに100人が幸福になるならば、その1人は死ぬべきだと結論づけられてしまう」というものである。これに対抗するために功利主義も消極的功利主義(曰く、「最大多数の最小苦痛」)など様々なヴァージョンを作り出し応戦している。

功利主義に対する俺の疑問は「幸福とは定量的なものなのか」というものである。もちろんこの批判も既に散々されてきたことだ。それに対する応答もある。そうした応答の中には「なるほど」と思わせるものもある。それでもやはり俺は「本当にそうか?それでいいのか?」と疑ってしまう。幸福や快楽や苦痛、善さといったものを量的に論じることに、一方で現実的な・実践における妥当性を覚えつつも、他方で違和感を拭えないのである。

 

3つめの理論が徳倫理学である。これは古くはアリストテレスが提唱者であり、現代ではマッキンタイア、フット、マクダウェルらが有名である。これは「徳を発揮することが我々にとっての幸福であり、善き生である」とする立場である。これは中世から近代においてはほぼ無視されていた。これは前の2説が隆盛を誇っていたこともあるが、それ以前にデカルトの存在が大きい。近代において、デカルトは思惟を本質とする「主体(私、心など)」と、延長(空間的に広がりをもつ、という意味)を本質とする「客体(物体、物質など)」により世界が構成されているという、主客二元論を展開した。そして全ては主体=理性によって把握されるという観念が大流行したことで、徳や悪徳によって善悪や道徳を論じることは不可能、無意味とされた。そして理性が諸学問において大きな存在感をもったのが近代である。カントも言うに及ばず、ヘーゲルも理性の絶対性を信じて疑わなかった。

しかし第二次大戦後に「本当に理性ってそんなにすごいものなのか」という疑問が多くの知識人や学者の間で提起された。なぜなら2つの大戦を巻き起こしたものが、他ならぬ理性だったからである。ここらへんはいわゆるフランクフルト学派アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』に詳しいだろう。俺はまだ読んでいないが(早よ読め)。

まあ、そんなこんなあって理性に批判が寄せられることで、それまでの諸理論も根底から批判に晒されることになった。基礎が揺らげばその上にあるものも無事ではいられないのである。そこで復活したのが徳倫理学である。復活させたのは(たぶん)マッキンタイアであり、『美徳なき時代』において(当時の)現代の個人主義的・自由主義風潮や義務論・功利主義を批判し、諸徳の実践による幸福の実現を説いた。もちろんアリストテレスの徳理論をそのまま復興させるのは色々問題があるので(アリストテレス奴隷制の容認など、現代社会では受け入れ難いことも言っていた)、現代版にアップデートはされた徳倫理学である。この新しい徳倫理学は歴史的に浅くもあり深くもあるので、やはり様々な議論がなされている。(どの理論も議論されてばっかじゃねーか、という声が聞こえてきそうだが、それはそれで哲学において途轍もなく重要なことである。むしろ議論の余地のない哲学理論など理論ではない、と個人的には思う。)

さて、この徳倫理学にも俺は一部疑問がある。それはこの理論が唱える「諸徳を発揮・実践することが幸福であり善である」という点にである。諸徳ってなんだよ、どれが徳なんだよ、そしていくつあんだよ。その諸徳を全部満たさなきゃ俺たちは「善い」とは言えないのかよ。それともいくつかでいいのか、それならどれを満たせばいいのさ、その根拠は? なとなど。

デレク・パーフィットという哲学者に倣って言えば、徳倫理学とは幸福になるための「客観リスト説」だと言える。幸福に生きるために必要ないくつかの項目があり、そのいくつかの項目が諸々の徳を指している。そしてそのリストに並んだものをひとつひとつクリアすれば我々は幸福になれるというわけだ。だが俺は(そしてパーフィットもだが)思う、「んなわけあるか」と。前段落の文句がそれである。そんなわけで俺は徳倫理学をそっくりそのまま受け入れることはできない。受け入れようとしているのは上述した中ではフィリッパ・フットである。『人間にとって善とはなにか 徳倫理学入門』という彼女の本も邦訳で出ているので興味のある方は是非一読されたし。英語圏の本らしくちょいちょいジョークも挟んでくるのでそういう意味でも面白い。

新しい徳倫理学をそのまま受け取らなかった、カッコよく言えば批判的に継承したのがジョン・マクダウェルである。彼は確かに有徳な人間が幸福であり、善き生を送ると考えている。しかし、何が徳であるのかは特定していない。ただ「有徳な人間には、何が善い行為なのかが見える(分かる)」と言うのみである。「徳とは徳である。以上」が彼の徳倫理学理論である。このように「何が徳や善い行為なのかをある種の規範や言語で表すことはそもそもできないし、されるべきではない」というのがコード化不可能性である。

俺はこのコード化不可能性の概念がかなりしっかりきている。義務論は理想主義的だし、功利主義は俺たちの生や道徳というものを痩せっぽっちにしている気がする。徳倫理学は賛同できる部分がある一方で、やはり「諸徳の特定」という行為には功利主義同様、道徳というものへの深刻さを欠くように感じる。コード化不可能性とは言ってしまえばある徳倫理学者の開き直りなのだが、それこそが真であり、また倫理学の(良い意味でも悪い意味でも)限界点だと思う。

 

ただし、コード化不可能性を認めるにしても、これで一件落着というわけではない。コード化不可能性を「開き直り」で終わらせないためにやるべきことはあるし、他の概念との関係を整合的に説明する作業も残っている。例えば理性がそうである。フットは徳の源泉を理性に求めた。それが妥当なのかどうかという問題がある(といってもマクダウェルが『徳と理性』という論文で既に言及していることではあるのだが)。まだやるべきこと、やれること、やりたいことはあるし、勉強したいこと、すべきこと、できることはたくさんある。

 

「学問とは、先人たちが築いてきたレンガの壁に、自分のレンガをちょこんと乗せるようなものだ」と誰かが言っていた。俺も所詮そんな程度のことしかできないだろう。ヒュームやデカルト、カント、ヘーゲルたちのように先人たちが築いた壁から、別の壁を作ることなんてできないかもしれない(できることならしたいけど)。でもそれでもいい。俺は世界について、人間についてもっと多くのことを知りたいし、考えたい。他の誰でもなく、俺自身が「これこそが世界にとって(あるいは人間にとって)本当のことだ!」というものが分かるときまで、俺は勉強を辞めるつもりはない。絶対に辞めない。

 

 

 

……「覚書」なのにこんなにたくさん書いてしまった。時間もおよそ2時間ほどかかった。その時間勉強しろとは思うが、頭がこんなにごちゃごちゃしたまま勉強したところで得られるものなどたかが知れてる。この2時間は俺にとっては必要だったのだ。この記事を書き終わり次第、(ちょっと一服してから)俺はまた勉強する。明日も、明後日も勉強する。俺は今、とても生きることにワクワクしている。

 

おわり。