犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

取り留めのない雑記(アニメ)

俺は前に「天気の子はエヴァへのアンサーだ。終局が訪れようとも人は生きていける」と書いたが、あれは少なくとも前半部分(句点以前)は正確ではない。なぜなら後半部分(終局においても人は生き続けることができるということ)は旧劇において、ユイの「人間、生きていこうとすれば何処だって天国になるわ」というセリフに表れているからだ。


テレビ版含め旧エヴァは、徹頭徹尾碇シンジという少年の物語でしかない。確かにシンジというボーイは、レイやアスカ、ミサトといったガールズ(?)とミーツする。しかし彼女たちは碇シンジの物語を描くための装置に過ぎない。(余談だが、そういった意味でも、ヒロインらがなんら世界改変の力を持たない点でも、エヴァセカイ系にカテゴリーすることは難しい。)


生きていく上で不可避である、「他者」に代表される偶然性・不可能性・理不尽さ。それらと、「他者」も包含する「世界」に対する自身の希望とに、どのように折り合いをつけるのか、それがテーマだったんじゃないのか、と俺は思う。そしてこのテーマに対する答えが次のシンジのセリフ「それでも、もう一度会いたいと思ったんだ」である。これこそが、庵野が1人のクリエイターとして提出したかったテーゼなのだ。

 


ここからはまた別の話。シンエヴァの話である。旧劇では文字通り世界は崩壊し、シンジとアスカしか残らなくなった。バッドエンドというより他にない。しかしシンエヴァではそうはならない見込みがかなりある。

0706作戦において先行上映された冒頭10分40秒ではパリの再生が描かれている。また空を覆う44Aと対峙する8号機は、旧劇の量産型エヴァと2号機の構図を意識していることは間違いないだろう(あるアニメーターによると、同じアニメーターが別々の作品においても同じ構図を用いることは、偶然ではありえず、必ず意図的なものだという)。

旧劇では当初量産型を圧倒したアスカだが最後は文字通りボロボロになった。しかしシンエヴァでは8号機は損傷を負うものの44Aを全機排除、4444Cにも(上空で待機中のヴンダーからの支援がありつつも)対応し撃破した。旧劇と新劇の明確な対比が既に示されている。


あとは庵野監督の「今度は大団円で終わりたい」発言、シンの予告における「たどり着いた場所が彼(シンジ)に希望を教える」というセリフに期待するしかない。

シンジは確かに「破」において、世界よりもレイを選んだ。結果ニア・サードインパクトが起き世界はほぼ崩壊した。シンジはその罪を贖えぬまま、「Q」でも再び世界を崩壊させかけた。現時点で、彼は一切の罪を償えていない。

しかし「償えない罪はない」「希望は残っているよ。どんな時にもね」というカヲルのセリフもある。罪は罪として消えることはない。しかし償うことは誰にでも許されている。人間の可謬性と、それを乗り越えていく人間のあらゆる可能性。それがQで、あくまでエンターテイメントとして描かれることを願ってやまない今日この頃である。

 


……「我々は背負った罪で道を選ぶのではなく、選んだ道で罪を背負うべきだからだ」

 

おわり