犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

「美」への感度

小さい頃、よくドライブに連れて行ってもらった。元々乗り物に乗っていることが好きな自分は、車の揺れや速さ、エンジン音、目の前に現れては過ぎ去っていく景色等々を楽しんでいた。

そんなある春の日、ドライブに連れて行ってもらっていたときに父がふと「あ、桜が咲いてる。綺麗だな〜」と言った。僕は桜を含めた景色全体を楽しんでいたが、その言葉につられて桜に注視した。しかし、特に綺麗だとは思わなかった。

別に桜が嫌いなわけではない(かといって好きというわけでもないが)。「桜が綺麗だ」という感覚も頭では理解できる。ただ、実感として、実際にその桜に心を打たれるような感覚を得られなかった。このことはなぜか強く僕の記憶に残っている。普段花の話などしない父が、そんなことを口にしたためだろうか。だがそれ以上に、「桜は綺麗だ」と世間一般の皆が言う、その感覚を共有できないある種の劣等感のようなものが根本にあるのかもしれない。

 

小さい子を見て「あの子可愛いですよね」という人がいる。その感覚も僕には分からなかった。何を以って「その子が可愛い」と判断するのか。動物の赤ちゃんは、その特性から見る者に「保護しなければいけない」という感情を抱かせるように出来ているという話もある。その子が可愛いと思うのも、その延長なのではないか。

頭でっかちだ。そんなことでその子の可愛さがわかるわけがない。可愛さとは直覚されるものだ。可愛いものが可愛いとわかる人はわかるし、わからない人にはわからない。全か無か、0か1かだ。その間にグラデーションは存在しない。この点で、綺麗さ≒美しさと可愛さは類比的に語ることができるだろう。俺には、美や可愛らしさへの感度が欠けている、あるいは他の人に比べて低いのかもしれない。そんなことを、夜更けの寝しなに考えてしまった。

 

俺には、花の美しさも小さい子供の可愛らしさもイマイチピンとこない。花は花だし、子供は子供(あるいは人間)だ。それ以上でもそれ以下でもない。ただ、「美しいものを美しい」「可愛らしいものを可愛らしい」と感じられる人の在り方それ自体が、とても綺麗なものだと自分には思われるのだ。自分にはその感覚がないが故の、ないものねだりだろうか。だとしても、綺麗なもの、美しいもの、可愛らしいものを見てパッと明るくなる人の表情を見ると、心が安らぐのである。

僕は、人間がものすごく厭なものだと感じる一方で、そうした人間の側面をとても素晴らしいものだとも思っている。「素晴らしい」という表現が偉そうに聞こえるならば、「めちゃくちゃイイ」「ドキドキワクワク」と言い換えてもいい。矛盾は人間の美徳のひとつだ。

ゴミのような人間は、それこそゴミのように遍く存在しているが、そうとは限らない人間もまた多く存在する。そのことを思うと、人間を完全に嫌いになるにはまだまだ早いなと思う。というよりも、完全に嫌いになるにはもう遅いのかもしれない。

 

…こういうポエティックな記事って、朝起きて見返したら恥ずかしくなるのかなぁと思ってたけど、真っ昼間からポエティックなツイートや記事書いてる僕にはモーマンタイですね。おわり。