犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

モニョモニョ

指導教官との面談があった。前回の面談では「全く勉強していないのが丸わかりだ」とボコボコにされた俺だが今回は違う。『美徳なき時代』を読んで自身のテーマを同定し、『道徳の中心問題』を読んで方向性を決めた。教官への資料も夜中の3時まで作り込んでおいた。万事抜かりなし。決意を新たにいざ教官の研究室へ。

 

結論から言うと、俺の努力は空振りに終わった。といっても良い方向に、ではあるが。

作った資料はカバンから出されることもなく未だ沈黙している。俺がインデント・ボールドで擦り減らした神経は塵芥と化した。少なくとも30分の死闘(?)は覚悟していたのだが、入室から退室まで数えても15分未満だった。あまりにもスラスラと会話が進みすぎたためである。

 

テーマの設定、方向性を確定したことは確実に良い方向に働いていた。そこで燻っていたところでの面談だったので、「次は何をしようか」もすんなり決まった。俺としてはすんなり決まりすぎた感もあるが、長い目で見て今後やりたいこと、その上で卒論でまずやることがある程度明確になったのはいいことだ。面談の内容も以前のものと比べたら確実に中身のあるものだったことだろう。

だが、それなりに心を決めて臨んでいただけに、これだけあっさりかつすっきり終わると完全燃焼したのか不完全燃焼だったのか判然しない。なんというかモニョモニョした気持ちなのである。なのでここにそのモニョモニョを吐き出していくことにする。

 

 

『美徳なき時代』、『道徳の中心問題』ではともに表出主義が批判される。道徳・倫理における表出主義とは、簡単に言うと「◯◯が正しい、悪い、というのは、個人の感情の表れ(表出)に過ぎないのだ」という考え方である。この理論は批判にさらされやすく、更には原理的に解決不能な問題を抱えてしまったことで、今では支持する人は少なくなってしまった。そんな道徳哲学・倫理学における一立場が表出主義である。

 

表出主義が批判される理由は様々ある。表出主義の中にも色々なタイプの表出主義があるが、根本には「道徳判断とは個人の感情に由来するものだ」という考え方がある。この考え方は一理あるとは思われるものの、それでは道徳判断の客観性や基準が不安定なものとなってしまう。そうなると善悪に関する意見の不一致すら起きない、ということが帰結することになる。

だが事実として、私たちは何らかの道徳的・倫理的な出来事について「これは善いことだ」「いや、これは悪いことだ」と意見の不一致をもつことがしばしばある。こうした事実と、表出主義の主張は矛盾するものである。そのため、表出主義はブームを起こしはしたが、今では下火となっている。

上記の「原理的に解決不能な問題」は幾分テクニカルな話になるため、気になった方は「フレーゲ=ギーチ問題」でググっていただきたい。これはこれで面白い話だが、「概念分析」や「真理値」など更に細かい用語を使って説明しなければいけない(が、それはとてもめんどくさい)ので、各自で好きにやってほしい。

 

さて、上では表出主義の概要とその一批判点を述べた。だが俺の目的はこれではない。俺が『美徳なき時代』『道徳の中心問題』を読み、思ったことは「なぜ表出主義が出現したのか、そして批判されたのか」ということである。そしてこの疑問についての暫定的な応答は、「それは時代の要請だったから」というものである。

 

第二次大戦以後、ファシズムに代表される全体主義的な思考は、人間を野蛮へと走らせる凶悪な思考だとみなされた。そして近代的思考の先駆であった「自律した個人」を再度目指す方向に世界は向かっていった。その流れの中で登場したもののひとつが表出主義である。そしてそれは成功したかに見えた。

しかし実際のところ、生まれたのは「自律した個人」ではなく「孤立した個人」でしかなかった。「自由意思に基づいて各個人が自分の所属する共同体を選び、参加する」という理想は、社会主義の理想と同じくらい理想主義的だったのだ。そして「孤立した個人」はやがて自由主義経済の追い風を受けて暴走し、個人主義の時代が到来してしまった。

この個人主義に対するカウンターとして、倫理学においては表出主義への批判があったのだろう。『美徳なき時代』ではそれが明確に叙述されているし、『道徳の中心問題』でも暗黙のうちにではあるが、それが示されている。

個人主義は現在でもなお、というより時代を重ねるごとに強固になっている感覚がある。某国に代表される保護貿易政策などが卑近な例として挙げられるだろう。悪い意味で保守的な機運が、世界を覆いつつあるように思える。

 

果たしてこれが良いことなのか悪いことなのか、即座に答えることが俺にはできそうにない。一国の首長として、自国民の生活を安定したものとすることは当然の行動であり責務でもある。しかしそれも度が過ぎれば問題である。

「国籍や人種、肌の色、宗教の違いなどさほど問題ではない。私たちはこの地球で共に生きていくことができる」というのもまた理想主義的な思考でしかないのだろうか。俺たちには、本当の意味で共生することはできないのか。これらの問いに「否」を突きつけてやるべく、また勉強しようと思うところである。

 

 

 

 

…なんか勉強不足のせいか、全体的に文章がモニョモニョしてる感じがするなぁ。モニョモニョ。