お盆といくつかの断章
お盆や年末年始といった帰省シーズンになると、ここ数年毎回思うことがある。「この街は帰省する人としていく人、どちらが多いのだろうか」と。政令指定都市でありながら「田舎」の趣がこの街にはある。「都会」の周縁、外部にあるこの街は、誰にとっての帰る場所であり、誰にとっての仮住まいの場所なのだろうか、と。
特に今日の街は寂しげだ。今年のお盆は8/13かららしい。とはいえ中心部に出ればそれなりの人数に出くわす。きっと曇りのせいなのだ。セルトラリンが足りない。「中和剤を脳に。調和剤をちょっと舌に」
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以前「新海誠は自分がボーイミーツガールの主人公になれるとはもう思っていない」といった主旨のツイートを見た。俺もそう思う。彼はパブリックイメージと反してかなり冷めている。「学生時代に恋愛をしなかったから、そのコンプレックスが作品に反映されている」というのは半分ハズレだ。
彼は最早自分がかなり冷めていることに気づいている。もう十分すぎるほど大人になってしまったのだから。しかしそれでも希望は捨てられない。だからこそ少年少女に託したのだ。「こうあれかし」と願いを込めたのだ。
「人生を棒に振ってでも会いたい人って、どんな人なんでしょうねぇ」と訊ねられた時の須賀の涙、「行け!」という須賀の叫び。「俺自身はもう、お前のような生き方はできないところまで来てしまった。でもお前たちはまだ生き方を選べる地点にいる。そして行きたい場所があるなら、行け」。俺にはそう思えた。
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昨日ヱヴァQを観た。年に一回はなんとなく観たくなる。久しぶりに観たが、やはりシンジは幼すぎる。いくら14歳とはいえ、周りからほぼなんの説明も受けていないとはいえ、だ。恐らく意図的なものだろう。
マリの「ついでにちょっとは世間を見てきな!」というセリフが今回引っかかった。まああんな全てが真っ赤になった世間を見てきてなんになるのか、といったツッコミは置いておくとしても。「なぜ意図的にシンジを幼く描いたのか?」「マリのセリフと行動は何を意味しているのか?目的は何か?」この疑問に対する答えはこうだ。
「庵野がシンジの成長譚を描きたかったから」。これだ。「またか」と言われそうだが、またなのだ。また改めてシンジの成長譚を描く理由は旧劇にある。
テレビ版含む旧劇は、先日別の記事で書いたように「徹頭徹尾碇シンジという少年の物語」だ。しかしあそこで描かれたのは「シンジが他者と生きていく決意をした地点」までである。決意はしたが、実践できずにいたのである。
ここで話をQに戻そう。Qではシンジはまた他者との共生を拒絶する。全てを投げ打ってでも助けたいと思い、救えたはずの人間は目覚めたら何処にもいなかった。以前親交のあった人々からは、冷たい視線と言動を投げかけられるだけ。世界を崩壊させかけ、大量の人々を(結果としてであっても)殺してしまったことを知らされ、唯一できた友人も無残に殺された。希望は既に一欠片も残っていない。文字通りの絶望、一切の望みが絶たれている状態である。
(旧劇で言えば
シンジ「…僕は、ここにいてもいいの?」
???「(無言)」
シンジ「(声にならない絶叫)」
の部分がここである。
その後シンジはなんやかんやあって「やっぱり他人と生きたいな」と思って、映画は終わる。)
シンエヴァでは恐らく、その先が描かれると思われる。シンジは再び他者と生きる希望を得る。そして実際に生きていくのだ。旧劇が「碇シンジ個人の物語」だったならば、新劇は「シンジを主軸とした、人々の共生の物語」なのだ。と妄想するのであった。
記事を書くのにも飽きてきたので、おわり