犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

独り言

遅刻を繰り返すおじさんがいる。幾度となく注意されてきたはずだろうが、一向に直る気配はない。周囲の人間もそれに慣れてしまったようだ。

 

そんなおじさんもこの前ついにちょっと厳しめに注意されたようだ。年下の上司に、である。その日のおじさんは酷かった。僕とはシフトが入れ替わりなのでその後のことは分からないが、僕が見た限りではものに当たり散らし、暴言を撒き散らし、愚痴を吐き散らしていた。

 

そういうところだよ、と思った。大きくなっただけの子供だな、とも思った。非はおじさんにある。農耕狩猟社会ならそれでもいいだろう。明るくなったら集まり、農作業や猟に出かける。作業、猟が終われば住処に帰る。そして日が暮れれば腹を満たし、眠る。そこで生きる人々の時間感覚は、僕らからすればとても曖昧だ。でもそれで成り立つのだから何も問題はない。

だが僕らが生きているのは資本主義社会、成果物も、労働も、時間さえも、全てを資本へと還元せしめんとする社会だ。そこでは時間を守るということは、共同体の存続にも関わる重大事となる。時間を守れない人はただそれだけで疎んじられる。そのような世界を肯定的・否定的にせよ、僕らは受け容れて生きている。この事実から目を逸らしてはならない。おじさんの遅刻は、断罪されて然るべきものなのだ。

 

「怒られたからって物に当たるとは、子供かよ」「自分の非を認められない、そういうところがアンタのダメなところだよ」そう思った後で、「いや、この人は寂しいんだろうな」と思った。おじさんは割と同僚と仲が良い方だ。フランクだし要領も良い。彼をとりわけ友好的に見る人もいる(僕は中立的な立場を守るつもりだが)。それでも、友好的な人々がいても癒せない寂しさというものはある。おじさんの抱える問題とはもっと根深いものなのだ。その寂しさを消すことはできないかもしれないが、少しの間だけでも忘れることができる。忘れることは別に悪いことじゃない。そしてそれができるのは、やはり人に他ならないと思うのだ。

 

ここで僕が述べたことは全くの見当違いかもしれない。おじさんの遅刻癖は何かしらの異常によるものかもしれない。適切な治療を施せば解決する問題かもしれない。だが、おじさんが人に聞こえるかどうかぐらいの声で何か話しかけてくるとき、僕にはこの人が抱える寂しさの存在を感じずにはいられないのだ。