犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

手短かに

「人間とは何か」とは広範な問いである。多くの学問の終着点と言っても過言ではない。人間についてなにがしかを考え、述べるために昔から多くの人々が知恵を絞り、議論や実験・研究を重ね続けてきた。そしてそれは今なお続いており、終わる兆しは見えない。

 

だがここに俺の応答を述べておこうと思う。この応答は暫定的としたいところだが、恐らく今後変わることはないだろう。その応答とは、「人間とは、酷く醜悪な生き物だが、同時にこの上なく美しい生き物でもある」である。これが約3年半生き地獄を這い擦りのたうち回り、人の悪性を眺め続けたのち、それでも人への希望を捨てきれなかった人間の答えである。

進捗

ついでに(なんのついでかは知らんが)勉強に関する進捗を、自分の考えの整理ついでに書いておく。

 

ひとまず自分は道徳的実在論、つまり道徳や道徳に関する真理は実在する、というスタンスを取っている。だが僕の立場は細かく言えば「弱い実在論」である。鉛筆や机のような形態で道徳は存在しているのではない。私たちの精神に強く依存した形態で存在する、というのが僕の考えである。なので教官からの「非実在論者への反論を考えてみる」という提案に、コミットしきれずにいるというのが正直なところである。

 

むしろ非実在論者の議論は納得のいく点が多い。特にR・M・ヘアの指令主義は良いセンをいっていると思う。道徳とは主観的なものではあるとしつつ、ギリギリまでその客観性を高めようとしたその姿勢には頭が下がる。そこでとりあえず今読んでいる本を読み終わったら、ヘアの著作を読む予定である。

 

…なんかこんなこと前にも書いた気がする。つまり「進捗ダメです」ってやつだ。俺は新しい知識を得ることが好きだし、人と議論やディスカッション(ディベートや論争ではなく)をすることも大好きだ。ただ、本はすぐ飽きる。もちろん本から新しい知識を得られることは沢山あるため、読書は好きだ。だが、好きだからといって飽きないということにはならない。「好きでい続けるためには努力が必要だ」という誰かの言葉を思い出す。読書を飽きずに続けようとするこの意志は、努力なのだろうか? 分からぬ。知る必要もない。知らなければならないのはもっと別のことだ。勉強しよう。その前に、とりあえず休息(つまりは睡眠)をとろう。でもお腹がすいたので、ご飯を食べよう。

 

…こんな感じで、いつも俺の頭は次から次へと話題が移り変わっていく。寝る間際もそうだから困る。ポコポコと湧いてくる。それがなくなる日は来るんだろうか。頼むから来てくれんかなぁ。お腹すいた。おわり。

「美」への感度

小さい頃、よくドライブに連れて行ってもらった。元々乗り物に乗っていることが好きな自分は、車の揺れや速さ、エンジン音、目の前に現れては過ぎ去っていく景色等々を楽しんでいた。

そんなある春の日、ドライブに連れて行ってもらっていたときに父がふと「あ、桜が咲いてる。綺麗だな〜」と言った。僕は桜を含めた景色全体を楽しんでいたが、その言葉につられて桜に注視した。しかし、特に綺麗だとは思わなかった。

別に桜が嫌いなわけではない(かといって好きというわけでもないが)。「桜が綺麗だ」という感覚も頭では理解できる。ただ、実感として、実際にその桜に心を打たれるような感覚を得られなかった。このことはなぜか強く僕の記憶に残っている。普段花の話などしない父が、そんなことを口にしたためだろうか。だがそれ以上に、「桜は綺麗だ」と世間一般の皆が言う、その感覚を共有できないある種の劣等感のようなものが根本にあるのかもしれない。

 

小さい子を見て「あの子可愛いですよね」という人がいる。その感覚も僕には分からなかった。何を以って「その子が可愛い」と判断するのか。動物の赤ちゃんは、その特性から見る者に「保護しなければいけない」という感情を抱かせるように出来ているという話もある。その子が可愛いと思うのも、その延長なのではないか。

頭でっかちだ。そんなことでその子の可愛さがわかるわけがない。可愛さとは直覚されるものだ。可愛いものが可愛いとわかる人はわかるし、わからない人にはわからない。全か無か、0か1かだ。その間にグラデーションは存在しない。この点で、綺麗さ≒美しさと可愛さは類比的に語ることができるだろう。俺には、美や可愛らしさへの感度が欠けている、あるいは他の人に比べて低いのかもしれない。そんなことを、夜更けの寝しなに考えてしまった。

 

俺には、花の美しさも小さい子供の可愛らしさもイマイチピンとこない。花は花だし、子供は子供(あるいは人間)だ。それ以上でもそれ以下でもない。ただ、「美しいものを美しい」「可愛らしいものを可愛らしい」と感じられる人の在り方それ自体が、とても綺麗なものだと自分には思われるのだ。自分にはその感覚がないが故の、ないものねだりだろうか。だとしても、綺麗なもの、美しいもの、可愛らしいものを見てパッと明るくなる人の表情を見ると、心が安らぐのである。

僕は、人間がものすごく厭なものだと感じる一方で、そうした人間の側面をとても素晴らしいものだとも思っている。「素晴らしい」という表現が偉そうに聞こえるならば、「めちゃくちゃイイ」「ドキドキワクワク」と言い換えてもいい。矛盾は人間の美徳のひとつだ。

ゴミのような人間は、それこそゴミのように遍く存在しているが、そうとは限らない人間もまた多く存在する。そのことを思うと、人間を完全に嫌いになるにはまだまだ早いなと思う。というよりも、完全に嫌いになるにはもう遅いのかもしれない。

 

…こういうポエティックな記事って、朝起きて見返したら恥ずかしくなるのかなぁと思ってたけど、真っ昼間からポエティックなツイートや記事書いてる僕にはモーマンタイですね。おわり。

 

モニョモニョ

指導教官との面談があった。前回の面談では「全く勉強していないのが丸わかりだ」とボコボコにされた俺だが今回は違う。『美徳なき時代』を読んで自身のテーマを同定し、『道徳の中心問題』を読んで方向性を決めた。教官への資料も夜中の3時まで作り込んでおいた。万事抜かりなし。決意を新たにいざ教官の研究室へ。

 

結論から言うと、俺の努力は空振りに終わった。といっても良い方向に、ではあるが。

作った資料はカバンから出されることもなく未だ沈黙している。俺がインデント・ボールドで擦り減らした神経は塵芥と化した。少なくとも30分の死闘(?)は覚悟していたのだが、入室から退室まで数えても15分未満だった。あまりにもスラスラと会話が進みすぎたためである。

 

テーマの設定、方向性を確定したことは確実に良い方向に働いていた。そこで燻っていたところでの面談だったので、「次は何をしようか」もすんなり決まった。俺としてはすんなり決まりすぎた感もあるが、長い目で見て今後やりたいこと、その上で卒論でまずやることがある程度明確になったのはいいことだ。面談の内容も以前のものと比べたら確実に中身のあるものだったことだろう。

だが、それなりに心を決めて臨んでいただけに、これだけあっさりかつすっきり終わると完全燃焼したのか不完全燃焼だったのか判然しない。なんというかモニョモニョした気持ちなのである。なのでここにそのモニョモニョを吐き出していくことにする。

 

 

『美徳なき時代』、『道徳の中心問題』ではともに表出主義が批判される。道徳・倫理における表出主義とは、簡単に言うと「◯◯が正しい、悪い、というのは、個人の感情の表れ(表出)に過ぎないのだ」という考え方である。この理論は批判にさらされやすく、更には原理的に解決不能な問題を抱えてしまったことで、今では支持する人は少なくなってしまった。そんな道徳哲学・倫理学における一立場が表出主義である。

 

表出主義が批判される理由は様々ある。表出主義の中にも色々なタイプの表出主義があるが、根本には「道徳判断とは個人の感情に由来するものだ」という考え方がある。この考え方は一理あるとは思われるものの、それでは道徳判断の客観性や基準が不安定なものとなってしまう。そうなると善悪に関する意見の不一致すら起きない、ということが帰結することになる。

だが事実として、私たちは何らかの道徳的・倫理的な出来事について「これは善いことだ」「いや、これは悪いことだ」と意見の不一致をもつことがしばしばある。こうした事実と、表出主義の主張は矛盾するものである。そのため、表出主義はブームを起こしはしたが、今では下火となっている。

上記の「原理的に解決不能な問題」は幾分テクニカルな話になるため、気になった方は「フレーゲ=ギーチ問題」でググっていただきたい。これはこれで面白い話だが、「概念分析」や「真理値」など更に細かい用語を使って説明しなければいけない(が、それはとてもめんどくさい)ので、各自で好きにやってほしい。

 

さて、上では表出主義の概要とその一批判点を述べた。だが俺の目的はこれではない。俺が『美徳なき時代』『道徳の中心問題』を読み、思ったことは「なぜ表出主義が出現したのか、そして批判されたのか」ということである。そしてこの疑問についての暫定的な応答は、「それは時代の要請だったから」というものである。

 

第二次大戦以後、ファシズムに代表される全体主義的な思考は、人間を野蛮へと走らせる凶悪な思考だとみなされた。そして近代的思考の先駆であった「自律した個人」を再度目指す方向に世界は向かっていった。その流れの中で登場したもののひとつが表出主義である。そしてそれは成功したかに見えた。

しかし実際のところ、生まれたのは「自律した個人」ではなく「孤立した個人」でしかなかった。「自由意思に基づいて各個人が自分の所属する共同体を選び、参加する」という理想は、社会主義の理想と同じくらい理想主義的だったのだ。そして「孤立した個人」はやがて自由主義経済の追い風を受けて暴走し、個人主義の時代が到来してしまった。

この個人主義に対するカウンターとして、倫理学においては表出主義への批判があったのだろう。『美徳なき時代』ではそれが明確に叙述されているし、『道徳の中心問題』でも暗黙のうちにではあるが、それが示されている。

個人主義は現在でもなお、というより時代を重ねるごとに強固になっている感覚がある。某国に代表される保護貿易政策などが卑近な例として挙げられるだろう。悪い意味で保守的な機運が、世界を覆いつつあるように思える。

 

果たしてこれが良いことなのか悪いことなのか、即座に答えることが俺にはできそうにない。一国の首長として、自国民の生活を安定したものとすることは当然の行動であり責務でもある。しかしそれも度が過ぎれば問題である。

「国籍や人種、肌の色、宗教の違いなどさほど問題ではない。私たちはこの地球で共に生きていくことができる」というのもまた理想主義的な思考でしかないのだろうか。俺たちには、本当の意味で共生することはできないのか。これらの問いに「否」を突きつけてやるべく、また勉強しようと思うところである。

 

 

 

 

…なんか勉強不足のせいか、全体的に文章がモニョモニョしてる感じがするなぁ。モニョモニョ。

秋雨というやつでしょうか

もともと湿っぽい仙台の夏ですが、また雨が続くようです。「レインウェアさえありゃどこに住もうが問題ねぇ!」と息巻いていた自分が恨めしく感じられる今日この頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか。僕は僕とて今日も歌詞貼りです。ペタペタ。

 

 

ドキュメント/サカナクション

作詞・作曲: 山口一郎

 

今までの僕の話は全部嘘さ
この先も全部ウソさ
何か言って何か聴いて僕は生きてる
このままでいいのかな?

 

疲れてる夜は一人で 僕 眠るんだ
だけどすぐに目が覚め
飲みかけの水を全部飲んでしまった
なのに残った乾き

 

ずっと前の君の思い出は どこか昔の自分を見るようで

 

この世界は僕のもの どこからか話してる声がするよ
すぐに何かに負けて涙流す 君と僕は似てるな

 

愛の歌 歌ってもいいかなって思い始めてる
愛の歌 歌ってもいいかなって思い始めてる

 

 

サカナクションは夜に聴くに限ると勝手に思い込んでいる私ですが、雨の日に聴くのも悪くないですね。しかいう。

 

独り言

遅刻を繰り返すおじさんがいる。幾度となく注意されてきたはずだろうが、一向に直る気配はない。周囲の人間もそれに慣れてしまったようだ。

 

そんなおじさんもこの前ついにちょっと厳しめに注意されたようだ。年下の上司に、である。その日のおじさんは酷かった。僕とはシフトが入れ替わりなのでその後のことは分からないが、僕が見た限りではものに当たり散らし、暴言を撒き散らし、愚痴を吐き散らしていた。

 

そういうところだよ、と思った。大きくなっただけの子供だな、とも思った。非はおじさんにある。農耕狩猟社会ならそれでもいいだろう。明るくなったら集まり、農作業や猟に出かける。作業、猟が終われば住処に帰る。そして日が暮れれば腹を満たし、眠る。そこで生きる人々の時間感覚は、僕らからすればとても曖昧だ。でもそれで成り立つのだから何も問題はない。

だが僕らが生きているのは資本主義社会、成果物も、労働も、時間さえも、全てを資本へと還元せしめんとする社会だ。そこでは時間を守るということは、共同体の存続にも関わる重大事となる。時間を守れない人はただそれだけで疎んじられる。そのような世界を肯定的・否定的にせよ、僕らは受け容れて生きている。この事実から目を逸らしてはならない。おじさんの遅刻は、断罪されて然るべきものなのだ。

 

「怒られたからって物に当たるとは、子供かよ」「自分の非を認められない、そういうところがアンタのダメなところだよ」そう思った後で、「いや、この人は寂しいんだろうな」と思った。おじさんは割と同僚と仲が良い方だ。フランクだし要領も良い。彼をとりわけ友好的に見る人もいる(僕は中立的な立場を守るつもりだが)。それでも、友好的な人々がいても癒せない寂しさというものはある。おじさんの抱える問題とはもっと根深いものなのだ。その寂しさを消すことはできないかもしれないが、少しの間だけでも忘れることができる。忘れることは別に悪いことじゃない。そしてそれができるのは、やはり人に他ならないと思うのだ。

 

ここで僕が述べたことは全くの見当違いかもしれない。おじさんの遅刻癖は何かしらの異常によるものかもしれない。適切な治療を施せば解決する問題かもしれない。だが、おじさんが人に聞こえるかどうかぐらいの声で何か話しかけてくるとき、僕にはこの人が抱える寂しさの存在を感じずにはいられないのだ。

 

ポーカーフェイス

 

むかしむかしあるところに、1人の浪人生(男)がおったそうな。彼は「今年自分がやるべきことは志望校への合格のみ。他は何もいらん」と考えていた。そんなわけで日々黙々と勉強していた。

 

しかしそんな男にも休息は必要である。とはいえ住んでいるのは予備校の寮。娯楽などそこには朝夕のテレビ、友人との僅かな雑談以外なく、男はよく休憩がてら街をぶらつくことが多かった。

 

そんなある日、アーケードをいつもの休憩としてブラブラ歩いていた。歩くのは平日と決めていた。土日祝日は人でごった返すからだ。人混みは嫌いではないが、人と人の間を縫うように歩くのは性分ではなかった。アーケードとはいえ地方都市の平日、人の量はそこまで気にならない。そこである女と出会った。きっかけは落とした財布を拾ったことである。そこで女は男をしげしげと見つめ、お礼ついでにちょっとお茶でもしないかと言う。男はまだ高校を出たばかりの19歳。下心をダダ漏れにして、彼はその提案に乗った。

 

だが彼の予想は全くの見当違いだった。その女は人をおちょくるのが好きな人間だった。彼が浪人生であり男子寮で生活していると聞くやいなや、

「そんな環境にいたら何かの間違いもあるかもね?」「分かんないよ?それぐらいの歳ってまだ性とかハッキリしないからね」「とか言って、実際そうなったら案外ノリノリになっちゃうかもよ笑」

などと口にするのだった。

男は最初生返事を繰り返した。「そんなことはない」「そんな間違いなんて起こらない」などなど。繰り返しながら、己の浅ましさを軽く憎んだ。まさか相手がこんな人をからかうのが好きな人間だったとは…。軽率に付いていくべきではなかった。やはり忌むべきは己が欲かな。そんなことを考えながら彼は返事とも言えぬ返事を返し続けた。

 

それでも女のからかいは止まらない。いくら否定したところでやめない。「そうやって否定する人ほど実は…ってこともあるんだよ?」「寮の同級生が突然部屋にやってきて…キャー笑」。

男は若さ故だろう、そんなしょうもないことでありながら、徐々にイラつき始めていた。そしてついに堪忍袋の緒が切れた。「もううるさい! そんなことないって言ってるじゃん! 俺は別に男に興味なんかないよ!」

 

場所が場所なだけに、声のボリュームは抑えた。だがそれまでの彼の声色とは決定的に違っていた。強く感情の表れた言葉と表情。言い終えて男は思った。「これでこの人も流石に気分を悪くするだろう。そしてこの会話も終わりだ。変な人に会ってしまったのは失敗だが、いい暇つぶしにはなったな」そんなことを考えていた。

 

しかし、女の反応は男の予想だにしないものだった。「…おお。やっと表情豊かになったね。だって君ずっとクールぶってるんだもん笑。君はそっちの方がいいよ」

 

男は暫く言葉を失った。予想が外れたこともある。しかしそれ以上に自分でも意識したことすらなかったところを突かれた気がした。自分でも知らぬ内にできていたカサブタをピリリと剥がされたような感覚。でもそこに不思議と痛みはなく、むしろほんの少しのこそばゆさがあった。

 

 

それからの男と女の付き合いは大して長いものではなかった。彼女からすれば男は「前の彼氏によく似ている男」でしかなく、彼に至っては「性愛として人を好きになる」ということがどういうことかすら分からなかった。もとより長続きするような2人ではなかったのだ。

 

男はそれから紆余曲折あり大学6年生となった。別に医学・薬学系の学部にいるわけではない。単に留年しただけである。今となっては彼女がどこで何をしているのか、知る術もなければ知る気もない(浪人中、彼はガラケーを使用し大学入学からはスマホにした。その際今後使わないだろう連絡先は消した)。

 

それでも男は時折思い出すことがある。「クールぶってるよりも、ちゃんと表情に出している方が君は良い」という彼女の言葉と表情を。思い出しはすれど、なかなか実行することはない。表情に出さないというより、出せないという方が正しい。男はそうやって20年弱生きてきた。それを変えるのはそう容易ではない。

ただ、自分の感情を(それが怒りであれ、喜びであれ、悲しみであれ)押し殺し何食わぬ顔で人と接する時に、その言葉を思い出すのだった。

 

 

※この話はフィクションであり、実際の人物、団体、その他なんやかんやとは関係ありません。