犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

抜き出し

 

「ところでこういう率直な人間こそ、俺は本物の正常な人間だと思う。心優しい母なる自然がこの地上にそっと産み落としたときに、こうあってほしいと望んだ姿のままの人間だ。俺は悔しくて腸が煮えくり返るほど、そういう人間が羨ましい。なるほどそいつは馬鹿だろう。その点は俺も反対しやしない。しかし、ひょっとすると正常な人間というのは、馬鹿でなければならないのかもしれない。そうではないと、あんた方はどうしてそんなにハッキリ言えるのかね。ひょっとするとこれは、真に美しいことでさえあるかもしれないじゃないか。そして俺は、たとえばその正常な人間と正反対の強烈な自意識をもつ人間のことを考えると、いま自分が述べた推測が正しいとますます確信を深めるのだ。自意識過剰の人間は、もちろん自然の懐から生まれたわけではない。……〔自意識過剰の人間は〕自分と正反対の者を前にすると、ときにはすっかりひるんだあげく、強烈な自意識をもっているくせに、自分を人間ではなくネズミだと真面目に考えたりするからだ。……そして重要なのは、彼が自ら自分自身をネズミだと考えている点だ。誰に頼まれたわけでもないのだ。ここが重要なポイントだ。」

 

〔〕内俺補足。強調(太字)も俺。

ドストエフスキー安岡治子訳)『地下室の手記』、2007、光文社古典新訳文庫より抜粋

 

‪“So I have made up this whole story‬ ‪And I run back into the maze"‬

Catch You Later / the HIATUS より。

そう歌詞貼りである。今回も英詞だが、和訳を書くつもりはない。面倒だからだ。そこまで難しくもないし、気になれば自分でググってくれ。

 

Catch You Later

作詞:Takeshi Hosomi

作曲:the HIATUS

 

This is the year it went too far
Forever fades, I've broken down


One, that is empty
Two, that are fool enough to miss the signs
In here and turned around

 

So this is the way I live my days
Whatever gives me pleasure
But this room is empty
Turned on the game and tried to see
If it still feels the same again

 

So I have made uo this whole story
And I run back into the maze
Just not to hurt you anymore
I don't wanna hurt you anymore

 

This is the story I tell myself
An evil king pulled us apart
My gun is empty
Like in the game we played
It's me that was the wolf that let you bleed

 

So this is the way I had to go
That never changes me for real
One, that is empty
One, that is fool enough to turn around
and run from what he found

 

So I have made up this whole story
And I run back into the maze
Just not to hurt you anymore
I don't wanna hurt you anymore


So I have made up this whole story
And I went back into the haze
Just not to hurt you anymore
I don't wanna hurt you anymore

 

I had a chance to say I couldn't let it go
I had a chance to say You were the one for me

 

So I have made up this whole story
And I run back into the maze
Just not to hurt you anymore
I don't wanna hurt you anymore

 

So I have made up this whole story
And I went back into the maze
Just not to hurt you anymore
I don't wanna hurt you anymore


So I have made up this whole story
Just not to hurt you anymore
I don't wanna hurt you anymore

 

エモい。おわり

バンプ再聴

BUMP OF CHICKENの実に6年?振りとなるオリジナルアルバム「aurora arc」がリリースされましたね。そこで「aurora arc」含めバンプのオリジナルアルバムを再び聴き返しながら、諸作業をして最近を過ごしておりました。

 

僕はバンプの熱烈なファンというわけではありませんが、好きなバンドの1つではあります。聴き始めたのは高校生の頃だったでしょうか。何がきっかけだったかは今となっては定かではありませんが(恐らく某ウロボロスくんの影響かと思われます)、「聞いたことのあるバンド」から「好きなバンド」になったのはその頃で間違いないのは確かです。

 

さて、「バンプは変わった」という言説を時折目にします。特に「ray feat. HATSUNE MIKU」発表時には顕著だったように思われます(何しろボーカロイドとのコラボですからね。まさに前代未聞のことであり、バンプファンのみならず、邦楽ファンにとっても多かれ少なかれ衝撃的だったことでしょう)。僕も一にわかファンとしては、「バンプは変わったな」と思います。しかし、この初音ミクとのコラボだけを取り上げてそう言うつもりはありません。これについて付言するならば、「これは挑戦であり、可能性の探求のひとつである」といったところであり、それ以上でもそれ以下でもありません。

 

バンプは変わったな」と先程僕は書きました。変わったと思う点は大きく分けて以下の2つです。

①楽曲のもつ色彩

②歌詞

 

①は「色彩」という言葉のせいで一見分かりづらいかもしれませんが、要は幅のことです。アルバム「RAY」と「butterflies」ではそれまでのバンドサウンドに加えて、エレクトリカルな音が印象的です。彼らのインタビューなどに目を通しているわけではないため真意のほどはわかりませんが、恐らく何かしらの変化や挑戦をしたかったのでしょう。「aurora arc」ではアコースティックなアレンジが目立ちますが、この頃の経験はこのアルバムの中でも息づいていると思います。

 

②について。個人的には、ロックバンドとしてのBUMP OF CHICKENは「orbital period(以下、orbital)」でひとつの到達点に達したという感があります。その後「COSMONAUT(以下、COSMO)」もありますが、ここでは次の段階に入っているような気がします。「orbital」まではやはり若さというか、月並みな表現ですが衝動のようなものを感じます。特に「乗車券」などは顕著です。遣り場のない怒りや生きることそのものに対する虚無感、藤原くんの死生観のようなものが強く現れています。

一方で「COSMO」以降はこうした衝動や人生への虚しさといったものは鳴りを潜め、むしろそれらを俯瞰した上で書かれているように見えます。この記事を書いている最中もバンプを聴いているのですが、「COSMO」は過渡期といった感じですね。「モーターサイクル」や「透明飛行船」では、ある種の虚無感とそれを客観視するような歌詞が展開されています。言い換えれば、「orbital」までは一人称視点の歌詞が多く、「COSMO」では一人称視点とそれを客観視するもう1人の視点から歌詞が書かれています。そして「RAY」から現在に至ってはそれらを俯瞰する三人称視点からの歌詞が展開されている、そんな印象を受けます。

 

と、ここまで個人的なバンドの変化してきた点を挙げてきましたが、もちろん変わらない部分があります。それは「歌詞」です。「歌詞? さっき変わったと言ったばかりじゃないか」と思われるかもしれませんが、別にこれは矛盾することではありません。

確かに歌詞の視点は変わってきました。しかしその内部で息づく「生きていく上で伴う時にささやかな、時に大きな痛み・悲しみ、そして喜び」といったものは変わらずにあります。こういったことはもちろん多くのアーティストが歌ってきて、また歌っていることであります。

しかし藤原くん独特の世界や人間、人生の捉え方、言葉の選び方がバンプの楽器を唯一無二のものにしていることは、紛れも無い事実です。これは誰が優れているとか劣っているという話ではありません。彼にしか書けない歌詞がある。そういう話です。

 

記事を書くのにも疲れてきたし眠いのでそろそろ終わります。間違いなどありましたらすみません。ご指摘頂けると幸いです。

 

…それにしても、二十歳そこそこで「ギルド」の歌詞が書けるのはすごいなぁ。久しぶりに聴いたけどびっくりしちゃった。おわり。

お盆といくつかの断章

お盆や年末年始といった帰省シーズンになると、ここ数年毎回思うことがある。「この街は帰省する人としていく人、どちらが多いのだろうか」と。政令指定都市でありながら「田舎」の趣がこの街にはある。「都会」の周縁、外部にあるこの街は、誰にとっての帰る場所であり、誰にとっての仮住まいの場所なのだろうか、と。

特に今日の街は寂しげだ。今年のお盆は8/13かららしい。とはいえ中心部に出ればそれなりの人数に出くわす。きっと曇りのせいなのだ。セルトラリンが足りない。「中和剤を脳に。調和剤をちょっと舌に」

 

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以前「新海誠は自分がボーイミーツガールの主人公になれるとはもう思っていない」といった主旨のツイートを見た。俺もそう思う。彼はパブリックイメージと反してかなり冷めている。「学生時代に恋愛をしなかったから、そのコンプレックスが作品に反映されている」というのは半分ハズレだ。

彼は最早自分がかなり冷めていることに気づいている。もう十分すぎるほど大人になってしまったのだから。しかしそれでも希望は捨てられない。だからこそ少年少女に託したのだ。「こうあれかし」と願いを込めたのだ。

「人生を棒に振ってでも会いたい人って、どんな人なんでしょうねぇ」と訊ねられた時の須賀の涙、「行け!」という須賀の叫び。「俺自身はもう、お前のような生き方はできないところまで来てしまった。でもお前たちはまだ生き方を選べる地点にいる。そして行きたい場所があるなら、行け」。俺にはそう思えた。

 

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昨日ヱヴァQを観た。年に一回はなんとなく観たくなる。久しぶりに観たが、やはりシンジは幼すぎる。いくら14歳とはいえ、周りからほぼなんの説明も受けていないとはいえ、だ。恐らく意図的なものだろう。

マリの「ついでにちょっとは世間を見てきな!」というセリフが今回引っかかった。まああんな全てが真っ赤になった世間を見てきてなんになるのか、といったツッコミは置いておくとしても。「なぜ意図的にシンジを幼く描いたのか?」「マリのセリフと行動は何を意味しているのか?目的は何か?」この疑問に対する答えはこうだ。

庵野がシンジの成長譚を描きたかったから」。これだ。「またか」と言われそうだが、またなのだ。また改めてシンジの成長譚を描く理由は旧劇にある。

テレビ版含む旧劇は、先日別の記事で書いたように「徹頭徹尾碇シンジという少年の物語」だ。しかしあそこで描かれたのは「シンジが他者と生きていく決意をした地点」までである。決意はしたが、実践できずにいたのである。

ここで話をQに戻そう。Qではシンジはまた他者との共生を拒絶する。全てを投げ打ってでも助けたいと思い、救えたはずの人間は目覚めたら何処にもいなかった。以前親交のあった人々からは、冷たい視線と言動を投げかけられるだけ。世界を崩壊させかけ、大量の人々を(結果としてであっても)殺してしまったことを知らされ、唯一できた友人も無残に殺された。希望は既に一欠片も残っていない。文字通りの絶望、一切の望みが絶たれている状態である。

(旧劇で言えば

シンジ「…僕は、ここにいてもいいの?」

???「(無言)」

シンジ「(声にならない絶叫)」

の部分がここである。

その後シンジはなんやかんやあって「やっぱり他人と生きたいな」と思って、映画は終わる。)

 

シンエヴァでは恐らく、その先が描かれると思われる。シンジは再び他者と生きる希望を得る。そして実際に生きていくのだ。旧劇が「碇シンジ個人の物語」だったならば、新劇は「シンジを主軸とした、人々の共生の物語」なのだ。と妄想するのであった。

 

 

 

記事を書くのにも飽きてきたので、おわり

歌詞貼り

自分にとっては久しぶりの歌詞貼りであり、このブログでは初めての歌詞貼りである。「怠惰」と罵る勿れ。歌にこそ「本当のこと」が宿るのだから。

なお、英詞の場合は対訳を参考にする場合もあるが、だいたいは俺の意訳である。故に恣意的にならざるを得ないが、大意を外すつもりはない。正確な意味を知りたいならば自身で辞書を引くがよろしい。知への渇望もまた人の本性だ。

 

 

 

The Ivy / the HIATUS

 

作詞:Takeshi Hosomi

作曲:the HIATUS

 

Keep holding on

持ちこたえて


You said to me

君はそう言った


I'll breath out all my sin

僕は僕自身の罪を全て吐き出す

 

Redeem all ignorance

あらゆる無知の救済


Apprentice disqualified

学ぶ資格を奪われた初心者


Percentile of relevance

関連性の百分率

 

You see the lightning strike the ground

君は雷が落ちるのを見て


And hear the storm roll down the hill

嵐が丘を吹き荒ぶのを聞いている


You touch the wall of the fortress

要塞の壁に触れると


And smile like it's nothing to fear

君は怖いものなど何もないかのように微笑む

 

You take my breath away

君は呼吸を忘れさせるほど美しく


My eyes are narrowed from the glare

僕はその眩さに目を細めた


And you take my pain away

君は僕の痛みを取り去ってくれる


Right at the moment of truth

真なるその瞬間の正しさ、それが<ここ>にはある

 

Keep holding on

まだ耐えていて


You said to me

君はそう言う


I'll breath out all my sin

僕はあらゆる罪を吐き出すんだ

 

You heard me

君は僕の声に耳を傾けたり


Ignored me

時には無視したり


You write it down and forget

書き留めては忘れたりする


Those are all your good memories

それら全てが良い思い出なんだ

 

You see the night is coming down

夜がやって来ると


And hear the stars will sing for us

星たちの歌声を君は聞いている


You touch the ivy on the wall

君は壁に絡んだ蔦に触れる


And smile like you'd never come back

そう、まるで二度と戻ってこないような微笑みを浮かべながら

 

You take my breath away

君は息を呑むほど美しいんだ


My eyes are narrowed from the glare

その輝きに僕はつい耐えられなくなる


And you take my pain away

君が僕の苦痛を消し去ってくれる


Right at the time of truth

本当の時間、その正しさ。それは<ここ>にしかないんだ

 

There's not much to say

もはや言葉はほとんど用をなさない


She's saving the world inside my head

彼女は世界を救っているんだ、僕の頭の中で


Hello to everyone

みんなは元気かい?


She's saving today inside my head

彼女が今日も救ってくれているから、僕は元気さ。もちろん、僕の頭の中でだけの話だけれどね

 

 

……後半に行くにつれ「もう意訳ちゃうやんけ」という声が、まさに「僕の頭の中」に聞こえてきそうだ。でもまぁええんや。この曲を聴いて、俺はこの歌詞をこのように解釈した。そういうこっちゃ。

 

しかし和訳とは難しいな。特に “I'll breath out all my sin"の訳には悩まされる。これはほぼ逐語訳が最善だとは思うけれども、それでは英詞の時のニュアンスが削ぎ落とされてしまうような気がする。“sin" という単語それ自体が重たい意味を持っているにもかかわらず、それに対応する「罪」が多義的であり、またそれゆえに漠然とした意味を持つせいかな、と思う。

ここでいう “sin" には宗教的な意味はおそらくほぼないだろう。「罪」というより「自分自身に対する負い目」という方が適切にも思える。

 

曲の主人公(彼)が持つ、「彼女」に対する罪の意識・負い目、それらに由来する自責の念がこの曲の妙味である。彼の内部における激情と諦念、静と動が見事に表現された珠玉の一曲。ぜひご視聴あれ。

 

おわり

取り留めのない雑記(アニメ)

俺は前に「天気の子はエヴァへのアンサーだ。終局が訪れようとも人は生きていける」と書いたが、あれは少なくとも前半部分(句点以前)は正確ではない。なぜなら後半部分(終局においても人は生き続けることができるということ)は旧劇において、ユイの「人間、生きていこうとすれば何処だって天国になるわ」というセリフに表れているからだ。


テレビ版含め旧エヴァは、徹頭徹尾碇シンジという少年の物語でしかない。確かにシンジというボーイは、レイやアスカ、ミサトといったガールズ(?)とミーツする。しかし彼女たちは碇シンジの物語を描くための装置に過ぎない。(余談だが、そういった意味でも、ヒロインらがなんら世界改変の力を持たない点でも、エヴァセカイ系にカテゴリーすることは難しい。)


生きていく上で不可避である、「他者」に代表される偶然性・不可能性・理不尽さ。それらと、「他者」も包含する「世界」に対する自身の希望とに、どのように折り合いをつけるのか、それがテーマだったんじゃないのか、と俺は思う。そしてこのテーマに対する答えが次のシンジのセリフ「それでも、もう一度会いたいと思ったんだ」である。これこそが、庵野が1人のクリエイターとして提出したかったテーゼなのだ。

 


ここからはまた別の話。シンエヴァの話である。旧劇では文字通り世界は崩壊し、シンジとアスカしか残らなくなった。バッドエンドというより他にない。しかしシンエヴァではそうはならない見込みがかなりある。

0706作戦において先行上映された冒頭10分40秒ではパリの再生が描かれている。また空を覆う44Aと対峙する8号機は、旧劇の量産型エヴァと2号機の構図を意識していることは間違いないだろう(あるアニメーターによると、同じアニメーターが別々の作品においても同じ構図を用いることは、偶然ではありえず、必ず意図的なものだという)。

旧劇では当初量産型を圧倒したアスカだが最後は文字通りボロボロになった。しかしシンエヴァでは8号機は損傷を負うものの44Aを全機排除、4444Cにも(上空で待機中のヴンダーからの支援がありつつも)対応し撃破した。旧劇と新劇の明確な対比が既に示されている。


あとは庵野監督の「今度は大団円で終わりたい」発言、シンの予告における「たどり着いた場所が彼(シンジ)に希望を教える」というセリフに期待するしかない。

シンジは確かに「破」において、世界よりもレイを選んだ。結果ニア・サードインパクトが起き世界はほぼ崩壊した。シンジはその罪を贖えぬまま、「Q」でも再び世界を崩壊させかけた。現時点で、彼は一切の罪を償えていない。

しかし「償えない罪はない」「希望は残っているよ。どんな時にもね」というカヲルのセリフもある。罪は罪として消えることはない。しかし償うことは誰にでも許されている。人間の可謬性と、それを乗り越えていく人間のあらゆる可能性。それがQで、あくまでエンターテイメントとして描かれることを願ってやまない今日この頃である。

 


……「我々は背負った罪で道を選ぶのではなく、選んだ道で罪を背負うべきだからだ」

 

おわり

覚書

休憩兼頭の整理として。本を読んでいても様々な別の事柄が浮かんできて本の内容が十分に入らない。なのでどこかに書き出し、吐き出すことで頭の中を整理する。

 

話は倫理学の話だ。俺はやはりマクダウェルに近い考えをもっている。正確に言えば、「道徳とは規範化(コード化)不可能なものだ」と俺は思う。そう思う理由について、自分の思考整理を主目的として(ついでにだれか読んでくれたらいいな〜くらいのつもりで)書く。

 

その前に倫理学についての概説をしておく。倫理学と一言で言っても大きく3つのジャンルがある。規範倫理学、応用倫理学、メタ倫理学の3つだ。規範倫理学とは主に義務論、功利主義、徳倫理学といった、「どのように行為することが我々にとって善いことなのか」を問う分野である。応用倫理学は規範倫理学で得られた知見を基に、医療や職業などの我々の生活にダイレクトに影響する事柄について問う分野である。そしてメタ倫理学とは「そもそも道徳とは、善いとは何か」ということを問う分野である。

 

以上が現代倫理学の概説だが、応用倫理学の話は今回はしない。一時期、生命倫理について勉強し遺伝子操作や出生前診断について色々考えていたこともあったが、今はそれほど興味もない。考えてみれば当時もそれらは二次的な問いでしかなかった。俺の根本的な問いはメタに向いていたのだから。

 

メタに向かうにしても初めから道徳そのものを疑っていたわけではない。そこまで天才的な洞察力を、俺は残念ながら持ち合わせていない。そこでまず俺が諸規範倫理学理論に対して持った疑問を説明することで、メタ倫理学に至った経緯を述べる。その上で「道徳のコード化不可能生」に思い至ったことを書いて、本記事は終わることにする。

 

規範倫理学には上述のように、主に3つの理論がある。義務論、功利主義、徳倫理学である。

まず義務論の概説をしよう。 代表的な論者は何と言ってもカントだろう。現代で言えばコースガードなどが有名である。カントの「君の格率が普遍妥当するように行為せよ」という言葉が義務論のなんたるかを物語っている。正直言ってカントは『基礎づけ』を数年前に一回読んだきりなので誤読の可能性は大である。だが、「道徳的な行為とは、仮言的(〜ならば、…せよ)なものではなく、定言的(…せよ)なものでなければならない」という彼の主張を大きく捉え損なってはいないだろう。

この義務論自体カントが唱えた近代から現在に至るまで様々な批判や擁護がなされている。またそれとは別に、「なぜ定言的なものだけが道徳的だと言えるのか」といった素朴な疑問もあるだろう。それに応えるためには、彼の「自律」や「自由」、「尊厳」といった概念に言及しなければならないのだが、それはこの記事の目的ではない。興味を持たれた読者諸賢で各自調べていただきたい。

義務論に対する俺の疑問は次のようになる。それは「あまりにも理想的すぎやしないか?」というものだ。こうした批判自体これまで何度も繰り返されてきたし、擁護や批判的発展もあった。だがこの義務論への違和感はいくら義務論を問い質したところで解消されないと俺は思う。そもそもの道徳観の違いなのだ。俺は義務論とは相容れない。なので却下である。

 

次は功利主義の話である。「最大多数の最大幸福」という言葉を聞いたことはないだろうか。このスローガンこそ功利主義を端的に表している。主な提唱者はミル父子、現代?で言えばヘアやシンガーなどが挙げられる。「社会とは個人の総和から成っている。そのため、各個人の幸福の総和が社会全体の幸福の総和となる」というのが功利主義の主な主張である。

功利主義に対してももちろん様々な議論が行われている。代表的な思考実験としては、「最大多数の最大幸福を求めるならば、ある1人の死と引き換えに100人が幸福になるならば、その1人は死ぬべきだと結論づけられてしまう」というものである。これに対抗するために功利主義も消極的功利主義(曰く、「最大多数の最小苦痛」)など様々なヴァージョンを作り出し応戦している。

功利主義に対する俺の疑問は「幸福とは定量的なものなのか」というものである。もちろんこの批判も既に散々されてきたことだ。それに対する応答もある。そうした応答の中には「なるほど」と思わせるものもある。それでもやはり俺は「本当にそうか?それでいいのか?」と疑ってしまう。幸福や快楽や苦痛、善さといったものを量的に論じることに、一方で現実的な・実践における妥当性を覚えつつも、他方で違和感を拭えないのである。

 

3つめの理論が徳倫理学である。これは古くはアリストテレスが提唱者であり、現代ではマッキンタイア、フット、マクダウェルらが有名である。これは「徳を発揮することが我々にとっての幸福であり、善き生である」とする立場である。これは中世から近代においてはほぼ無視されていた。これは前の2説が隆盛を誇っていたこともあるが、それ以前にデカルトの存在が大きい。近代において、デカルトは思惟を本質とする「主体(私、心など)」と、延長(空間的に広がりをもつ、という意味)を本質とする「客体(物体、物質など)」により世界が構成されているという、主客二元論を展開した。そして全ては主体=理性によって把握されるという観念が大流行したことで、徳や悪徳によって善悪や道徳を論じることは不可能、無意味とされた。そして理性が諸学問において大きな存在感をもったのが近代である。カントも言うに及ばず、ヘーゲルも理性の絶対性を信じて疑わなかった。

しかし第二次大戦後に「本当に理性ってそんなにすごいものなのか」という疑問が多くの知識人や学者の間で提起された。なぜなら2つの大戦を巻き起こしたものが、他ならぬ理性だったからである。ここらへんはいわゆるフランクフルト学派アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』に詳しいだろう。俺はまだ読んでいないが(早よ読め)。

まあ、そんなこんなあって理性に批判が寄せられることで、それまでの諸理論も根底から批判に晒されることになった。基礎が揺らげばその上にあるものも無事ではいられないのである。そこで復活したのが徳倫理学である。復活させたのは(たぶん)マッキンタイアであり、『美徳なき時代』において(当時の)現代の個人主義的・自由主義風潮や義務論・功利主義を批判し、諸徳の実践による幸福の実現を説いた。もちろんアリストテレスの徳理論をそのまま復興させるのは色々問題があるので(アリストテレス奴隷制の容認など、現代社会では受け入れ難いことも言っていた)、現代版にアップデートはされた徳倫理学である。この新しい徳倫理学は歴史的に浅くもあり深くもあるので、やはり様々な議論がなされている。(どの理論も議論されてばっかじゃねーか、という声が聞こえてきそうだが、それはそれで哲学において途轍もなく重要なことである。むしろ議論の余地のない哲学理論など理論ではない、と個人的には思う。)

さて、この徳倫理学にも俺は一部疑問がある。それはこの理論が唱える「諸徳を発揮・実践することが幸福であり善である」という点にである。諸徳ってなんだよ、どれが徳なんだよ、そしていくつあんだよ。その諸徳を全部満たさなきゃ俺たちは「善い」とは言えないのかよ。それともいくつかでいいのか、それならどれを満たせばいいのさ、その根拠は? なとなど。

デレク・パーフィットという哲学者に倣って言えば、徳倫理学とは幸福になるための「客観リスト説」だと言える。幸福に生きるために必要ないくつかの項目があり、そのいくつかの項目が諸々の徳を指している。そしてそのリストに並んだものをひとつひとつクリアすれば我々は幸福になれるというわけだ。だが俺は(そしてパーフィットもだが)思う、「んなわけあるか」と。前段落の文句がそれである。そんなわけで俺は徳倫理学をそっくりそのまま受け入れることはできない。受け入れようとしているのは上述した中ではフィリッパ・フットである。『人間にとって善とはなにか 徳倫理学入門』という彼女の本も邦訳で出ているので興味のある方は是非一読されたし。英語圏の本らしくちょいちょいジョークも挟んでくるのでそういう意味でも面白い。

新しい徳倫理学をそのまま受け取らなかった、カッコよく言えば批判的に継承したのがジョン・マクダウェルである。彼は確かに有徳な人間が幸福であり、善き生を送ると考えている。しかし、何が徳であるのかは特定していない。ただ「有徳な人間には、何が善い行為なのかが見える(分かる)」と言うのみである。「徳とは徳である。以上」が彼の徳倫理学理論である。このように「何が徳や善い行為なのかをある種の規範や言語で表すことはそもそもできないし、されるべきではない」というのがコード化不可能性である。

俺はこのコード化不可能性の概念がかなりしっかりきている。義務論は理想主義的だし、功利主義は俺たちの生や道徳というものを痩せっぽっちにしている気がする。徳倫理学は賛同できる部分がある一方で、やはり「諸徳の特定」という行為には功利主義同様、道徳というものへの深刻さを欠くように感じる。コード化不可能性とは言ってしまえばある徳倫理学者の開き直りなのだが、それこそが真であり、また倫理学の(良い意味でも悪い意味でも)限界点だと思う。

 

ただし、コード化不可能性を認めるにしても、これで一件落着というわけではない。コード化不可能性を「開き直り」で終わらせないためにやるべきことはあるし、他の概念との関係を整合的に説明する作業も残っている。例えば理性がそうである。フットは徳の源泉を理性に求めた。それが妥当なのかどうかという問題がある(といってもマクダウェルが『徳と理性』という論文で既に言及していることではあるのだが)。まだやるべきこと、やれること、やりたいことはあるし、勉強したいこと、すべきこと、できることはたくさんある。

 

「学問とは、先人たちが築いてきたレンガの壁に、自分のレンガをちょこんと乗せるようなものだ」と誰かが言っていた。俺も所詮そんな程度のことしかできないだろう。ヒュームやデカルト、カント、ヘーゲルたちのように先人たちが築いた壁から、別の壁を作ることなんてできないかもしれない(できることならしたいけど)。でもそれでもいい。俺は世界について、人間についてもっと多くのことを知りたいし、考えたい。他の誰でもなく、俺自身が「これこそが世界にとって(あるいは人間にとって)本当のことだ!」というものが分かるときまで、俺は勉強を辞めるつもりはない。絶対に辞めない。

 

 

 

……「覚書」なのにこんなにたくさん書いてしまった。時間もおよそ2時間ほどかかった。その時間勉強しろとは思うが、頭がこんなにごちゃごちゃしたまま勉強したところで得られるものなどたかが知れてる。この2時間は俺にとっては必要だったのだ。この記事を書き終わり次第、(ちょっと一服してから)俺はまた勉強する。明日も、明後日も勉強する。俺は今、とても生きることにワクワクしている。

 

おわり。