犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

「なんで3年間も勉強放置してたんじゃコラ」に対する言い訳

 僕は以前のブログ(院試に落ちた話のやつ)で「勉強を3年間も放置してた」と書いた。これは具体的に言うと、自分の専修が決まった学部2年から院への進学を決めた学部5年まで、ほとんど勉強をしてこなかったということである。

 なぜ勉強しなかったのか。その理由を一言で言うならば、「勉強不足ゆえに勉強する理由が分からなかったから」ということになる。こう書くと「つまりどういうことだってばよ」となるが、以下でこのことを書いていく。

 

 はじめにも書いたが、僕は2年次からほとんど勉強をしてこなかった。別に勉強が嫌だったわけではない。むしろ好きだったし、今でも好きである。勉強に限らず、知らなかったことを知ったり、出来なかったことができるようになるのが、僕は好きである。それは部活やバイトでも当てはまる。中でも勉強は知らないことがよく見つかるし、同時に知ることも多い。その中で自分の中に起こる驚きや達成感が僕は好きなのだ。

 (僕はたまにストイックだと言われることがある。それは僕のこうした、何かに取り組む際の態度によるものだと思う。ラクにやれるのなら、もちろんラクをしたい。しかしそれでは僕は変われないのだから、意識するしないに関わらずストイックになってしまうのは、ある意味仕方のないことではある。)

 

 僕は勉強が嫌いではない。講義概要は毎年見ていたし、自分の専門はもちろん、気になる授業があれば他分野でも講義内容の詳細はチェックし、出席していた。

 しかし、当時(そして今でも)興味を惹かれる授業はほとんどなかった。僕がやりたいことと各講義の目標・目的が違いすぎたからだ。毎年毎セメスター探してみても、僕の興味関心と関わりの深い講義がほとんどない。大学の講義は高校までの授業とは違って、それぞれの先生方の専門や興味関心と関わりの深い内容になりがちである。そのためこうした学生と先生たちの関心のすれ違いは、仕方のないことだと思っている。

 今だからこそある程度言葉にできるが、僕の中の疑問は、これまでの道徳哲学が前提にしていた「価値の一元性」にある。そしてこうした疑問に関わりの深い研究は歴史が深いようで浅く、蓄積もあまりない。ソクラテスに端を発する「多様な善さの承認」は、古代ギリシャでは隆盛を誇っていた。しかし中世・近代・近現代と時代を経るにつれ、そうした考え方は廃れ、時代遅れのものと見做されるようになった。そうした思想の潮流を経た上で、1970年代頃から「これまでの道徳哲学が蔑ろにしてきたものは、実は結構大事なものだったんじゃないか?」と再び取り上げられるようになった。他の倫理学理論には3,400年ほどの歴史があり、また活発に議論されることで体系化されてきた経緯を考えると、この数100年の差は大きい。

 そのため講義で取り上げられる機会もほとんどなかった。記憶にある中では、研究室が決まってからの5年間で1回、僕が気づいていなかっただけだとしても、片手で数えられる回数だろう。研究にしろ勉強にしろ(極言すれば何事であっても)、自主的に取り組むことが重要なのは分かる。しかし、言い訳になるが、自分で勉強しようにもそのための最初の取っ掛かりが、当時の僕にはなかったのである。

 ついでなので、僕が留年した理由にもここで触れておく。単位が足りなかった、というのは確かにある。しかしそれ以上にこの「やりたい事のなさ、不明確さ」が主な原因だった。事実、僕はなんだかんだあって2〜4年生で大学に通う事自体少なくなってはいたが、単位だけは取っていた。なので4年次に卒論提出までこぎつければ卒業できていた。2留したがこの間で取得した単位は卒業論文の単位のみである。

 …なんか偉そうに書いているが、全く偉くもなんともないなこれ。結局必要単位数ジャストしか取ってないし(興味のない講義の単位取っても何も面白くなかったという理由もあるが)、留年したのには変わりないし。自分で書いてて悲しくなってきた…。

 

 脱線したので元に戻す。この「価値の一元性」への疑問は、僕の人生の様々な場面や、高校の倫理や現代文といった授業の中で徐々に形成されたものである。そのため講義に関しては大学に入るまでの知識でなんとかなってしまった部分も多く、単位を取るだけなら勉強せずともどうとでもなった(レポートの質などはクソだったので、そこらへんは先生方のご厚意によるものだが)。単位が足りなかったのは文武を両道できなかった己の未熟さと諸事情ゆえです。お察しください。

 そうして過ごす内に「自分がやりたいことは、少なくとも大学でやれることじゃないのかもなぁ。だったらテキトーにお金稼いで、気になる本でも読んで勉強していけばいいかなぁ」と考えるようになった。僕が一時期就活をしていた理由はこれである。

 しかし以前も書いた通り、僕は就活をやめて研究の道に進むことに決めた。「金なら、死なない程度にあればいい。それより勉強の方にもっと時間を割きたい」と思ったからだ。しかし、進路を決めたはいいが何をすればよいのかは分からない。そこでとりあえず教官に進学や研究について諸々の相談してみることにした。

 その中で「それならこういう方面はどう?」「この本とかオススメかな」とアドバイスを頂いた。そしてそれらの本を読んでみた結果、まさに目から鱗が落ちた気がした。「こんな分野があったのか。こういうの考えててもやっぱりいいんだ」と思えた。まともなのは自分以外の人間で、自分はどこかで頭がおかしくなり、「変な」ことを考えてしまうようになったんだと思っていた。だが、「変な」人はこれまでも、そして現在でも意外と沢山いたのだった。

 

 それからは勉強した。大学に入るまでに習うことも含め、また一からやり直す気持ちで取り組んだ。その全てが有益だったとは言い難い。僕の疑問が「価値の一元性」批判にあると分かるまで、言ってしまえば去年1年間は無駄だったとも言える。僕の中心的な問いは「善さとは何か」という非常に漠然とした問いである。この問いをより細かく分けて考えていくと、「何をもって『〜〜は善い』と言えるのか」「『〜〜は善い』と発言することで、我々は何をしようとしているのか」「善はどのように定義できる(あるいはできない)のか」「善とは本当に我々が求めるに値するものなのか」「実際に為された行為における善と、意志における善のどちらが優れているのか」などといったように、より具体的で細分化された問いになっていく。こうした作業の中で、自分が一番研究したいこととは違った方向に進んでいたのが去年だった。

 だが去年勉強したことがあるからこそ、これからどのように、何を勉強していくのがいいか分かってきたのも確かである。そんなわけで、今はまた去年とは異なる分野に取り組んでいる。カッコよく言うなら、これこそ「失敗は成功のもと」ってやつだ。…カッコついてねぇな。

 

 まとめると、僕は大学の講義にあまり興味を持てず、研究どころか勉強もロクにしなかった。しかし自分の疑問に正直になってみた結果、自分が勉強不足ゆえに勉強を軽視していたこと、まだまだ勉強できる余地が十分すぎるほどあること、そしてそれがいわゆる研究というやつらしいことが分かった。これをやらない手はない。

 仮にどこかの企業に就職していたとしても、僕は絶対にこの「価値の一元性への問い」を考えずにはいられない。そしていずれにせよ勉学の道に進んでいただろう。今まで色々なことをやってきたけれど、この疑問だけは頭を離れなかった。どうせ他の生き方を選んだところで、この問いからは逃げられない。それならもう自分の人生全賭けしてでも、やってやればいいじゃないか。たとえ賭けに負けたとしても、やって負けたなら諦めもつく。その時はその時でなんとか生きていくだろう。

 

 最後にある曲の歌詞を一部引用して終わる。やっぱり音楽っていいですよね。歌手は、もはやラッパーの枠を飛び越え一流のアーティストである、KREVA。曲は『居場所』である。

 

“無駄なことはない それは嘘だね

ただぼっと眺める時間を減らせ

その手動かせ 黙ることはできないんだろう

壁を動かせ 守るだけじゃ増えない居場所”

ヘイー♪

 

https://www.youtube.com/watch?v=3Ac82nTf8Zg

 

口内炎

 前口上として——ブログを書こうと思ってはてなブログアプリを開き、前回の記事の日付を見たら4/29でびっくりした。体感的には4,5日前に書いたような感じしかなかったので、思っていたよりも時間が経っていたことにビビる。もちろん今が5月の10日付近だという感覚はあるのだが、前回の記事からこれほど時間が経っていようとは…不思議なものですね。

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 最近、口内環境が荒れている。原因はビタミン不足と生活習慣の乱れだろう。生活習慣に関しては、正直俺としては手の出しようがない(体調が最悪に近づけば近づくほど不可避的に乱れる、最近はカーテン越しにも差し込んでくる朝陽で勝手に目が覚める、などというように)。なのでビタミンを摂ることにした。と言っても野菜を食うわけではない。もちろん野菜を食うに越したことはない。しかし野菜は値段が高い。苦学生、ならぬ苦フリーターの身からすれば、継続的に摂取するには金がかかる。そこでサプリメントに頼ることにした。

 これが存外効いている。確かに野菜によるビタミン摂取に劣る点はある。経験的に、野菜をバカ喰いすれば1日で口内炎は治る。こちらのサプリは口内炎が治るまで2,3日かかったが、それでも治りはしている。今までサプリに手を出したことはなかったが、そもそも食事への興味が大幅に減退して久しいので、食に対するこだわりはほぼない。今後はこういったものを利用していくのもいいのかもしれない。


 口内炎が治り、俺の口内環境は良くなった、改善された。そこでふと「これで口内環境は健康になったのだな」と思ったのだが、果たして本当にそうか、という疑念が湧いてくる。果たしてこの「問題のない体調」は「健康」と言ってよいのだろうか。もっと言えば、体調というものは「健康」か「不健康」かの2通りの状態だけなのだろうか、と。
 おそらく(実際には)その通りだろう。俺の今の口内環境は「健康」というに相応しい状態である。生活を行う上で支障となるものはない。しかし少し想像力(妄想力)を膨らませてみると、実はそうではない可能性が出てくる。それはすなわち、体調には「健康」と「不健康」と、「過度な健康」の3つがあり得る、ということである。
 「過度な健康」とはどのような状態だろう。思うにそれは、活力が有り余り、何をどれだけしようと疲労を感じることもなく、いついかなるときも溌剌としており、休息も必要とせず、病気や怪我をするなど一切なく、ほぼ永久的に活動し続けられる状態だろう。これはある種理想的な状態と言えなくとないが、どうだろうか。もし仮にこのような状態に人間はなり得るとして、僕らはこれを望むだろうか。「それは願ってもないことだ。是非ともそんな状態になりたい」と望む人間もいるかもしれない。
 だがこれは「健康」の域を明らかに超え出ている。もしこのような人間が身の回りに存在したならば、僕らはおそらくその人に底知れない不気味さや奇怪さを感じざるを得ないし、「このような状態になりたくない」と思うことだろう。
 上で「体調には、(実際には)健康と不健康の2つがある」と書いたのは、このような過度に健康な人間はおそらく(少なくとも僕の知る限り)存在しないからである。仮に、ここまでではなくとも尋常ではなく健康である人間がいるとすれば、その人はなんらかの病気に罹っている可能性が高かろう。つまり、「過度な健康」とは、僕たちの日常的な感覚から言えば「不健康」に分類されるような状態なのである。それゆえ、体調とは実際には健康か不健康かのどちらかなのである。


 この3種類の体調に関する妄想から、さらに連想の幅を広げよう。我々はしばしば「あの人は善い人だ」とか、「そんなのは悪い人間のやることだ」などと口にする。こうした言葉の背景には「人間とは、善い人か悪い人か、そのどちらかだけが存在する」という考えがあるように見える。しかし、本当にそうだろうか。体調と同じように、人間も「過度に善い人」「過度に悪い人」「過度に善くも過度に悪くもない人、あるいは善くも悪くもある人」に大別できるのではないか。

 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に出てくるカンダタが、3つ目のタイプに属しうるだろう。彼は生前殺人や放火、泥棒などを行った結果、地獄に堕ちた罪人である。しかしそんな彼でも、一度だけ善行をなした。それは小さな蜘蛛を踏み殺しかけてやめ、命を救ったことだ。
 もちろん、「殺人・放火・窃盗に比べて、蜘蛛の命ひとつ救ったところでそれがなんだ。カンダタの善行と悪行を比較考量すれば、彼が「悪い人」なのは一目瞭然だし、言うなれば「過度に悪い人」だ」という意見もあるだろう。「そもそも蜘蛛を踏み殺そうとしている時点でダメだ。悪くない人間は、元から踏み殺すことなど考えはしない。よってカンダタは蜘蛛の命を救ったわけではない。悪くない人間が普段行なっていることをしたぐらいで、カンダタに善性を認めるのはおかしい」というのも納得できる。
 たしかにカンダタは、少なくとも「過度な善人」ではなかろう。善人と悪人のどちらかと言えば、間違いなく悪人である。それは犯した罪からも明らかである。蜘蛛を踏み殺そうとしたその意志も、彼の悪さを示しているだろう。しかし、彼は結局その蜘蛛を殺さなかったのだ。一度は蜘蛛を殺そうと考えはしたものの、「やはり可哀想だ」と考え、殺すのをやめたのである。ここに彼の内にある良心の一片を見抜くことは難しくない。彼は悪人ではあると同時に、たとえほんの少しであっても、善人でもあるのである。
 ここではカンダタを例に挙げたが、程度の差こそあれ、人間の多くはこの「善くも悪くもある人」に分けられることだろう。全くの悪を、あるいは善を為したことのない人間が、一体何人いただろうか。仮に善しか為したことのない人がいるとすれば、それは聖人君子というべき存在だろう。そんな人物の話を僕らはよく耳にするが、彼ら/彼女らが実在した、または実在すると素直に信じるのは難しかろう。悪人にしても同様である。[1]

 人間は善くもあり悪くもある、という考えは人によっては自明かもしれない。しかし、少なくとも俺にとっては自明ではなかった。世の中には善人と悪人の2種類だけが存在する。そして人類全体でそれらが占める割合は、悪人の方が圧倒的に多い、と考えていた。さらにその悪人の中には、自分も間違いなく入っている。そう考えていた。だが人間はそう単純ではないのかもしれない。自分の行為を振り返っても、他人の行為を鑑みても、人間は善も行うし悪も為し得る生き物であることは見てとれる。善人や悪人は存在し得るが、それらはその人の、数ある内のある一面が表れたものにすぎない。人間とは、善でもあり悪でもあるのだ。


 …といったようなことをぼんやりと考えていた。ここまでの話を簡略化し、敢えて議論として成立させるならば、「人間には善人と悪人の2種類しかいないのか」というところか。そしてそれに対する結論は、「そうではない。人間はただ1種類のみ存在する。すなわち、善くも悪くもある人間、である」となるだろう。ひとつの問いに対し、ひとつの結論が得られた。ひとまずここで話を終えることにしよう。
 ——だが、ここでまた別の問題を考えてみることもできる。それは例えば、「人間は善くも悪くもあるのなら、善いことと悪いことのどちらを行うべきなのか」といった問いである。「そんなの、善いことに決まっているじゃないか。善いことをした方がいいに決まってるんだから」。たしかに、それは一理ある。「善いことをしなさい」とはあらゆる場面や時代で用いられる道徳的言説である。
 しかし、なぜ我々は善いことをしなければならないのだろうか。あるいは、なぜ「私」は善いことをしなければならないのだろうか。このことは、実のところちっとも自明ではないのである。少なくとも、哲学においてはそうである。
 この問題は「Why be moral?」として知られており、「自己利益と全体の利益の対立」として扱われることが多い。これに関する議論を以下で述べると、この記事はとんでもなく長くなってしまうので省くが、詰まるところ「我々は道徳的に善くあるべき理由は、実ははっきりしていないし、はっきりさせられる見込みも少ない」のである。そしてこの結論から、あるいはこの議論の過程から、またさらに別の議論が起こる…。
 流石に字数も3000近くなってきており、書き始めてから校正込みで3時間近く経ってきて疲れたので、今日はこのへんで終わりにしておく。とりあえず昼飯を食べて、マルチビタミン剤を摂るとしよう。



[1] ただ一方で、悪しか為したことのない人間は、存在し得るし、存在したかもしれない。凶悪な犯罪者というのは実際に存在するし、これまでも存在した。彼らがそのような犯行に至った経緯については様々あり、必ずしも彼らの人間性のみを悪と断ずることはできない。しかし、そうではなく、「根っからの悪人」というのも存在するように思われるケースもまた存在する。


追記
 このブログの記事はスマホから書いているのだが、脚注の付け方が分からない。PCからしか出来ないのだろうか。俺の記事は話の本筋から脱線することが多いため、なるべくなら脚注を好きに使えるようにしておきたいのだが、はてさてどうしたものか……。

頭痛薬

 頭痛がひどくなってきたため、先程市販の頭痛薬を飲んだ。薬局の店員さんに訊いて「とにかく頭痛を抑えたいならこれ」と勧められたイブクイック頭痛薬DXである。これがなかなか良い。確かに頭痛も止むし、おまけに心がとても落ち着く。鎮痛剤には鎮静効果まであるのだろうか。本当に、先ほどまでの心理状態がなんだったのかと思えるほどに、今僕の心は穏やかである。
 この穏やかが心地よい一方で、一抹の悲しさを覚えずにはいられない。先ほどまでの心の荒れよう——といっても、嵐が来ているというほどではなく、時化が来ている程度ではある——を思い返し、今の状態を考えると、やはり自分は病人なのかと考えさせられる。「マシになった、もう大丈夫だ」と思っても、負荷がかかるとすぐこれである。「鬱病は治らない」とよく言われる。やはりそうなのだろうか。
 他の人からはこの世界がどう見えているのか、とふと考える。頭痛が止んだ今の僕には、世界が「ありのまま」のように見える。車の走行音、人の話声、家電製品の動く音。それらがただ単に「その音」として聞こえてくる。さっきまでの僕はどうだったのか。確かに同じ音は聞こえていた。耳に入っていたし、認識していた。しかし、心の中では全く別の、嫌なことばかり考えていた。そのせいで注意が散漫になり、頭痛も起こった。今はそうではない。目の前のテクストに集中できる。嫌なことは嫌なことのままだが、それはそれとして傍に追いやることができる。みんな、「普通の人」はこれがいつもできるんだろうか。薬に頼らずとも、やっているのだろうか。
 ある特定のことばかりが気になってしまって、目の前のことに集中できない状態は、鬱症状の初期からずっと続いているものだ。そのため今後も続いていくような気がしてならない。もう僕は、薬を飲まずにはまともに生活を送ることもできない。そんな事実と予想が、ただただ悲しい。

日記

 ‪ぼんやりと、自分の周りの人間関係について考えていた。正直言ってもう嫌気しか差していないが、頭に浮かんでくるんだから仕方がない。なのでぼんやりと考えた。そこでひとつ思い出したことがあった。それは「自分を大切にしてくれる人を大切にすること」である。

 俺はどちらかというと、人間的に問題のある方だ(と自分では思っている)。なので人から喜ばれるようなことばかりしてきたわけではない。むしろ嫌がられる方が多かっただろう。
 だが、そんな俺でも良いことをすることがある。それは意図してやってる場合もあれば、意図せずに行っている場合もある。そんなときに、自分に感謝してくれる人が意外といることにふと気づいた。思い返してみると、何気なくやった善行であっても「あれやってくれて助かりました」「ありがとうね」などと言われることがある。自分では特に気にせずやっているので気に留めないのだが、ふと振り返ってみるとそういうことが思いの外あった。
 一方で、感謝の言葉を言わない人もいる。これに関して僕は別になんとも思わない。そもそも感謝してほしいからとか、喜んでほしいからやっているのではなく、単純に自分がそうしたいからやっているだけである。なので、むしろ自分としては感謝されてびっくりすることが多い。「え? そんなことで感謝されんの? なにゆえ?」みたいな。

 上に書いたような「意図しない感謝」をなんとなく思い出すうちに、「自分を大切にしてくれる人を、大切にすること」を思い出した。自分を大切にしてくれる人は、やはりいる。確実にいる。その一方で自分のことを別に大切にしていない人間もいる。ならば後者のことなど気にせず、むしろそんな人を気にしてる暇があるのならば、前者への思いやりにその暇を回すべきではないのか。自分のことをテキトーに扱う奴を大切にしてやる義理はない。勝手にやらせておけばよいのだ。俺も勝手にやらせてもらおう。
 この考え方は確かに精神衛生上良いだろうが、反面で自分にとって耳障りの悪いことを聞かなくなる危険がある。それは否定しきれない。もしかしたら自分は今後もっと自分勝手な人間になってしまうかも知れない。もちろんそうならないように気をつけるつもりではいる。ただ、仮に本当にただの自分勝手なクソ野郎になったときには、自分の周りにいる誰かがそれを諭してくれるだろう。そうなることを期待して、今日は終わろう。

ほぼ最悪

 久しぶりに精神状態がほぼ最悪になった。最後にこのような状態になったのが去年の9,10月頃なので、約半年ぶりということになる。ちなみに前回は月を重ねるごとに悪化していき、11月〜翌2月下旬は本当に「最悪」な状態になった。今回はそこまで落ちてはいないのが不幸中の幸いか。2020年4月24日現在、その「ほぼ最悪」状態からも若干抜け出しつつあるため、最近思ったことを書いていこうと思う。

 俺が「最悪」になる原因の大半が人間関係によるものだと思われる。何も俺に限ったことではないかもしれないが、とにかく俺は人付き合いで苦労するところが多い気がする。以前性格診断で「察しが良すぎる」と書かれたことがあった。この結果を鵜呑みにするのもどうかと思うが、やはり察しすぎて(予想しすぎて)苦労する場面が多い。「AをすればBが起きる。Bが起きればCも起こる。そしてCが起きればDが、Dが起きればEが……」といったように、あることをきっかけに事態がどのように動いていくのかを考えすぎる。そして考えられうる一切の悪い事態を避けようとして行動する。行動するのだが、その意図は他人に説明しない。なぜ説明しないのかというと、説明するとまた別の悪い事態が生じるからだ。
 俺は、すべての人間が①相手の話をきちんと聞き、②それをもとに考え、③実行に移せる理性的存在者だとは思っていない。人間の多くは①〜③のいずれかひとつでもできるか知れたものではない、という認識でいる。いわんや①〜③のすべてをや、である。①を行っただけでも悪い事態に陥る場合が殆どだ。そのため俺は説明しない。もちろんすべての人間が①〜③を実行可能になればいいとは思う。だがそれはあまりに理想的すぎる。おお、神よ、なぜあなたはこのような世界を、人間をお造りになられたのか。

 俺は何かを実行するとき、基本的に人に相談等をしない。それは想定可能なあらゆる悪い状況を少しでも回避するために、である。そのため他人から「あいつは何を考えているんだ」と思われようが基本的には気にしない。僕の行動があまりに常軌を逸した場合には気にするが、そうならないように常々気をつけてはいるし、そうなったとしても他者からの意見は聞き入れるようにしている。
 …しかし僕が予想する以上に、人間とは感情で動く生き物であり、思考を働かさない(働かせることができない)生き物なんだなと、改めて身をもって実感した。やはり俺は他人に期待しすぎる。「ここまでやれば・言えば、それぐらいはできるだろう」と思っていても、実際にできているのは予想の5割がいいところである。本当に、自分の馬鹿さ加減に笑いがこみ上げてくる。俺は他人を、人間を知らなさすぎる。人間がどれほど愚かなのかについてあまりに無知である。今までも何度も同じ目に遭ってきてこれなのだから、もはや笑いが止まらない。他人は、人間は、そしてなにより俺は、いったいどこまで愚かな生き物なのか。怒りや呆れを通り越して、もはや面白くなってくる。これが喜劇でなくてなんだというのか。

 やはり、他人に期待するものではない。個々の人間(のもつ能力)を信頼し過ぎてはいけない。全く信じないのも、それはそれで問題がある。そのためある程度は信頼せねばならない。しかし、深入りは禁物だ。もうこんな思い、2度としたくない。

「みんな大変なんだよ」と人は言うけれども

  以前、とある人のツイートを見て思ったことがこの記事の発端だが、それと同様のことを僕も前から思っていた。それを今回はつらつら書いていこうと思う。

 それは2011年の震災の時である。地震津波による被害は、僕の家や住んでいた地域では少なかった。もちろん地震による家具や食器の倒壊や道路の陥没、停電や断水といった被害はあった。しかし、それよりも問題となったのが、遠く隔ったはずの場所から飛んできた放射性物質である。

 放射性物質により、僕は故郷を一時的にではあるが失った。生まれ育った家にも帰ることはなくなった。…このように書くと、この状況をかなり悲観しているように思われる。確かに悲しいのは悲しいのだが、所詮「そう遠くない将来の、いつか」は出て行く場所だ。その「いつか」が思っていたよりも唐突に、早く訪れただけの話である。それに現在では帰ろうと思えば帰ることだってできる。その道を僕は選ばないだけである。——そう頭で理解・納得してはいても、たまに村の畦道や竹林、中学校の校舎やその近辺を思い出さないこともない。

 

 ともあれ、僕は故郷を離れざるを得なくなった。その際のことを僕は恐らく生涯忘れないだろう。「あの村から来たんですか?」という言葉と、警戒心を宿した瞳。「悪いけど、君の住んでいたところはもう人の住む場所じゃないよ」という「暖かい」「励まし」の言葉。僕と弟だけが親戚の家に避難する際の(結果的に一時的なものだったとはいえ)、今生の別れであるかのような両親の表情。今でも鮮明に思い出せる。思い出さざるを得なくなった。

 震災後には色々とインタビューのようなものも受けた。そのほとんどで為される「今どのようなお気持ちですか?」という質問に、僕は「特に何とも言えない」というような、曖昧な返答を繰り返していた。今思い返してもあの頃は特別落ち込んだり、悲しんだりしていなかったように思う(周りからどう見えていたかは分からないが)。一変した生活や環境を受け入れ順応するのに必死で、落ち込む余裕もなかったのかもしれない。ただ心のどこかに、「同情なんかされてなるものか、お前たちに俺の何が分かるというんだ」という反発もあった気もする。

 変わってしまった生活に徐々に慣れていく、慣れていかなければいけない中で、「みんな大変なんだよ、だから君も頑張らなきゃ」といった言葉をかけられることも増えた。そのときに僕の中の何かが弾け飛んだ。

 「みんな」って誰だよ。震災や原発の被害にあった奴らか? それともなんの関係もない場所でのほほんと暮らしてる奴らか?

お前は自分の故郷を否定されたことがあるのか? 「あの村から避難してきた」という理由だけでアパートを貸し渋られた経験は? 何の咎もなく避難せざるを得なかっただけなのに、避難先でいじめられた奴らの苦しみをお前は知っているのか? 避難したら避難したで「被害者面しやがって」と言われたことはあるか? お前は俺たちの一体何を知っているんだ。お前らは何も知らない、知ろうともしないくせに、勝手に俺たちの大変さを決めてんじゃねえよ。

 

 …そう言いたかったが、言ったところで何も状況は変わらないことは分かっていた。そのため、ただ口角を少し上げて、目を細め、目尻をやや下げながら「そうですよね」と返すことしかできなかった。

 

 震災からおよそ9年が経った。それが早いのか遅いのかは分からない。僕の周りには僕以外にも、震災によって不可逆の変化を被った人が数多くいる。それぞれに、それぞれの大変さがあった9年だったろう。お疲れさまでした、本当に。

 今では「みんな大変なんだよ」論に当時ほど激しい怒りを抱くことはなくなった。ただあの怒りとは別の角度から何らかの違和感を感じてはいる。

 そのひとつが、「みんな」とは誰か、という話だ。これは当時も感じていたことだが、あの頃よりはマシになった。ただ、この「みんな」に関して思うことは、「あなたの言う「みんな』とは、つまり『あなた』のことではないですか?」ということ。他人を自分にとって都合のいい理由に使っているのではないか、というネガティブな懐疑の念を、この言説を目にする度に抱かずにはいられない。

 もうひとつが、「みんな大変なんだよ」という言葉が意味するところである。この言葉は一般に「みんな大変だから、あなたも頑張りなさいね」という意味で用いられるように思う。だが僕はこの言葉を、「みんな大変だよなぁ、まあ大変だけど、お互い上手くやって行こうぜ」という意味で捉えたい。こちらは前者と比べて幾分ポジティブな違和感、と言えるだろう。「使いたい」ではなく「捉えたい」である理由は、恐らく僕は「みんな大変なんだよ」という言葉をほぼ使わないと思われるからだ。

 誰しも大変な思いをしていることなんて、今更言うまでもないことである。そんなこと言わなくたって、みんな頑張っていることはすでに分かっている。更に言えば、「みんな大変なんだよ」と言ったところで、僕が「みんな」の大変さをどれほど理解できているのかは甚だ疑問である。

 他人が僕の怒りを究極的には理解できなかったように、僕も他の誰かの気持ちを理解するのは、究極的には不可能のだ。なので、この言葉を僕はあまり使いたくない。容易に使えば他人を傷つけることになるからだ。それは僕の本意ではない。ただ、この言葉を言われることは今後もあると思うので、その時にはそのように捉えたい、と考えている。

 「みんな大変なんだよ」という言葉の裏には「自分を労って欲しい気持ちが隠れている、とも言えるかもしれない。それならそれで別によい。労ってほしいのなら労ってやる。ただ、労ってもらってるばかりではあなたは変わらない、ずっと大変なままだ、とだけ言っておく。現状から変わりたい・現状を変えたいのなら、まずはその内向きな視線を少しでも外に向けるべきだ。甘えるなとは言いたいのではない。自分自身も含めて、他人のことももう少し甘やかしてあげたらどうだ、という話だ。

 

おまけ

 僕はひとつのブログ記事に色々な話題を詰め込みすぎる癖がある。昔はもっと日記感覚でつらつら書いてたのになぁ。なので長くもなるし、話題も一貫性を欠いて「結局何が言いたいのか」がわかりづらくなりそうにも思える。まあそのうちなんとかなるでしょう。

 あと真面目な話ばっかりでつまらん。なので今後はもうちょっとしょうもないことも記事にしていきたい。ゲームとか。歌詞貼りなんかも復活するかも(昔は大丈夫だったけど、今は著作権とか大丈夫なんですかね…)。

 そんなことを考えてる最近です。おわり。

些事・追記

 俺は昨夜(というより今朝)の記事において「他人に期待しない」と書いた。それはそれで俺の真意である。俺は他人に期待しすぎる。人間を信じすぎる。その結果人間に失望することも数えきれないほどあった。「なぜ人はこんなことをしてしまうのか」「なぜ人はこんなことを繰り返すのか」そう考えて神経衰弱に陥ったこともあった。そして今でも度々顔を覗かせる。
 …ただ、人間が人間を信じないで、いったい他の何が人間を信じるというのか。何もありはしまい。失望しながらも進むと俺は決めたのではなかったか。ヒトの持つ悪性を突きつけられながらも、絶望しながらも人間の善性を可能性を見出し続けると俺は決めたのではなかったか。
 別に俺は神ではない。人を導くようなカリスマ性も持ち得ない。ただの凡庸な1人の人間として、俺は俺にできることを行い、やり遂げるだけだ。