犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

些事

 世間には、認めがたい人間がいる。「人間は皆素晴らしいものだ」と、何の迷いもなく口にすることは僕にはできない。他人を傷つける者。自らの過ちを認めない者。文句は言うが自ら行動しようとはしない者。他人を見下す者。数え上げればキリがない。
 それでも僕は受け入れよう。貴方がたを受け入れよう。他人を傷つけずにいられないなら、僕を傷つけるがよい。自らの過ちを認められないなら、僕になすりつければよい。文句があるなら僕に言えばよい、貴方がやらずとも僕が行動しよう。見下すならば僕を見下して、気持ちよくなればよい。そうしたことで、下らない——実に、実に下らない、ヒトの抱える如何なる悪性にも劣る——争いが少しでも減るのならば、僕は受け入れよう。
 他人は変わらない。変えられるのは自分だけだ。ならば、期待すべきは他人に非らず。自分が期待し信頼すべきは、他ならぬ自分のみである。

「お笑い」の追記

 以前、お笑いを否定するようなことを書いてきたが、僕自身はお笑いが大好きである。特に漫才が好きだ。コンビやトリオだからこそ成り立つ掛け合い、絶妙なタイミングで、かつ的確に繰り出されるツッコミ、そして観客すらもツッコミを入れてしまいたくなるボケ。観ていて本当に面白く、楽しい気分にさせてくれる。そんなお笑いが僕は好きだ。
 芸能事務所が裏社会とつながりを持っていようと、僕は構わない。ただ、裏社会は裏にあるからこそ、その役割を果たすことができる。以前はそういった方々の間では、「決して堅気の人間には手を出してはいけない」「堅気の人間の目の及ぶ範囲で事を為してはならない」という厳格なルールが存在した。そして、そうした社会が存在することを住民たちも認識し、暗黙の了解として受け入れていた。
 だが、僕らの過剰なまでの排他的姿勢、「この世の中に悪なるものは一切存在してはならない」という、最早限度すら見失い暴走を起こした「正義感」が、以前の騒動を大きくしたのではないだろうか。たしかに、彼らは合法・非合法問わずシノギのために動くかもしれない。その結果堅気の人間にまでその悪影響が及んでいることもまた事実だ。
 しかし、「持ちつ持たれつ」という言葉もある。裏社会と表社会は、文字通り「表裏一体」なのである。表があってこその裏、裏あってこその表である。どちらか一方を消し去ろうとすれば、もう一方も消え去ることは必定だろう。
 
 …そもそも、本当に「悪なるもの」は裏社会にしか存在しないのだろうか。もし、この「正義感」が表社会においても暴走を始めたとしたら、どうなるだろうか。ほら、周りを見れば、少しとも言わず見えてくるだろう。暴走した正義が跋扈する様を。

性格診断

 以前就活していたときに、自己分析の一助になればと利用した性格診断サイトからメールが来た。気まぐれにやってみたが意外と面白い。暇つぶし程度にはなるだろう。よくこういった性格診断に関して「誰にでも当てはまることを書いてるだけ」と言われることがある。その通りかもしれない。
 だが、僕の考えからすれば、それはどうでもいいことだ。そのテストは、正確に性格診断しているわけではないかもしれない(これは洒落である)。だがそうだとしても、友人や知人との会話の種にはなろうというもの。診断結果の真偽より、そうした会話の創出に、こういった診断は真に役割を果たすのだろう。
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 また性格診断について思うことがもうひとつある。それは、診断の質問に回答するその人の心情によって、診断結果に多かれ少なかれ差があるはずだ、というものだ。僕が2020年4月11日に回答したものと、2018年4月11日に回答したものとでは、恐らく大きく結果が異なる。希死念慮が頭から離れなかったあの頃と今とでは、精神状態が大きく異なる。180度変わったと言っても過言ではない。そしてこのことから、あるひとつの問いが浮かんでくる。それは、「今の自分とあの頃の自分、果たしてどちらが本当の自分なのか」という疑問である。
 今の僕は、悪く言えば薬によって精神を上向きにさせている。外的な力によってもたらされたこの心の状態は、果たして本当に自分自身の心だと言えるのだろうか。前の、ただただ死ぬことしか考えられず、世に人に絶望し、何に対しても何の感情ももてなかった頃の僕こそが本当の自分なのではないか。そう考えることも多々あった。

 だが、恐らくこの問いは無意味である。そも、僕が精神的に落ち込んでいたのも、外的な要因によるものである。精神状態が上下した原因が自分の外部にあるものであるならば、たとえそれらの量や質が違っていようとも等しくその効力を評価すべきだろう。
 さらに決定的なのは、落ち込んでいようとも前を向いていようとも、どちらも本当の〈僕〉である、という事実である。これまで25年余り生きてきた自分以外に〈僕〉は存在しない。これまでの生きてきた結果として、今の〈僕〉が在るのだ。また、どのような精神状態にあろうとも、そのときの自分こそが〈僕〉であり、〈僕〉でしかない。
 この「〈僕〉であるということ」を、仮に「自分性」と名付けよう。この自分性は、3つの尺度で測られ得るだろう。すなわち、「連続した時間の中での自分」「あるひとつの時点における自分」「他者と関わる際の自分」の3つである。これらは初めのものからx軸、y軸、z軸を用いた座標空間をイメージするといいかもしれない。
 この自分性はそのときどきによって変移する。「5歳のときに仮面ライダーの話を友達とする自分」と、「23歳のときに心療内科の先生に相談する自分」、そして「25歳のときに1人でブログを書いている自分」では、その精神状態は異なる。自分性とは、常に定数が変わり続ける3軸の値によって決まるため、どれひとつとして同じものはない。つまり、「本当の自分」など在って無いようなものなのだ。これまでの人生という座標空間内に打ち続けた点の集合が「本当の自分」であると同時に、この先の人生にも打ち続けるであろう未だ無い点の集合もまた「本当の自分」である。
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 ひどく青臭いことを書いているのは自分でも分かる。夜にこんなことを書いているからだろうか。それは違う。僕は夜でなくとも、こんなことを考えている。薬によって正気を保つ自分と、投薬せずに絶望に沈む自分のどちらが本当の自分かなど、昼夜問わず幾度となく考え、苦しくなることもあった。どちらの自分でいるべきなのか、そんなことを考えまた絶望の淵を覗き込むこともあった。
 だが、今となってはそんなことはもういい。これまでの全ての自分が、本当の自分だったのだ。そしてこれからも在るだろう自分もまた、本当の自分である。この先の自分がどうなるかなど分からない。また死を願うようになってしまうかもしれない。そしてそんな自分を否定したり、肯定しようとしたりするかもしれない。だとしても、僕はそれを受け入れようと思うし、受け入れるしかない。そのときはそのときである。これまでだって、そのときにできる範囲内のことを、僕はやってきたし、逆に言えば範囲内のことしか出来なかった。今後もきっとそうだろう。しかし、それでいいのだと、最近は思うのである。

汝罪ありや?

 「無知は罪である」という言葉がある。曰く、知るべきこと、知っているべきことを知らずにいるのは悪だ、と。なるほど、一理あろう。一流レストランでテーブルマナーを知らずに食事を行うのはみっともなく、恥ずべきことだろう。卑近な例を挙げるなら、火曜日が家庭ゴミの日だと知らずに水曜日に家庭ゴミを出してしまったならば、ゴミ収集業者や近隣の住人の迷惑である。
 一流のレストランで食事をするならば、それ相応のマナー・作法が求められる。ゴミ出しの日も知っていなければ迷惑がかかる人もいる。無知は、知らずにいることは、確かに罪かもしれない。しかし、本当にそうだろうか。「無知は罪なり」と言って終わらせた気になってしまっていることが、僕らにはあるのではなかろうか。

 まず、なぜ「無知は罪である」のだろうか。「無知は罪である」は本当に正しいのか。この検討から入ろう。無知が罪であることを示すためには、幾段階かの論証を経ねばならない。恐らく、以下のような形になるはずだ。

①:ある人物Pはある行為Qについて、何も知らない。
②:PはQをしなければならない状況にある。
③:①より、PはQを行う術を知らない。
④:③より、PはQを適切に行えない。
⑤:②と④より、Pは為すべきことを為せない。
⑥:故に、Pには罪(悪)がある。

 さて、この論証は本当に正しいのだろうか。①〜③は無視して良いだろう。これらは「状況設定」である。①〜③のような状況を想定することで初めて、「無知は罪である」という言明の真偽を問えるようになるのだから。問題は④と⑤、そして結論である⑥である。
 それでは、④と⑤の妥当性はどうだろうか。これは問題ないように見える。例えば(貧弱な例で申し訳ないが)文系である僕が、旧課程数学Ⅲ・Cの問題を解かねばならない状況にあるとしよう(=②)。僕は別に数学Ⅲ・Cを学んだわけではない、故にどのような内容なのかを知らない(=①、③)。そのため、僕は数学Ⅲ・Cの問題を出されても解くのは難しいだろう(=④、⑤)。①〜⑤の前提にはなんら問題が見当たらない。では、結論である⑥、つまり、僕に罪はあるのだろうか。
 それは筋違いというものだろう。僕は別に数学研究者ではないし、理系ですらない。故に、Ⅲ・Cの問題が解けないからといって僕に罪があるとは言えない。ここで「Ⅲ・Cの問題を解かねばならないのに、理系じゃないから解かなくていい、なんて理屈があるか」と思われるかもしれない。しかし、「Ⅲ・Cの問題を解かねばならないこと」と「理系であること」は無関係である。事実、理系であるがⅢ・Cを必要としない人間もいる(看護学科などがそうだろう)。それ故、僕がⅢ・Cの問題を解けないとしても、僕にはなんの罪悪もない。故に、⑥は誤りである。また、ここまでの議論が正しければ、①〜⑤から⑥を導くことは誤りである。そのため、「無知は罪である」もまた偽、つまり誤りである。

 ここまでに僕が行った議論が誤っている可能性はある。異論を挟む余地もあろう。しかし、せいぜいが「無知が罪である、とまでは言えない」といったところだろう。知らないことを適切に行えなかったとしても、悪いとまでは言えないのである。
 思うに、本当に罪であるのは「誤りを許容しないこと」と「誤りを認め、その誤りを正さないこと」である。仮に無知が罪であってもよい。無知であったことを理解し、それを直そうとすればよい。無知であった当事者と、その当事者を取り巻く関係者の双方が、自身の考えを改める必要がある。本当に「無知は罪である」で思考を止めてよいのか。無知を批判して、話を終わらせてしまってよいのか。考えることを止めてしまってはいけない。それこそがなににも増して認め難い「罪」なのだから。

 ……さて、この「考え続けなければいけない」という結論でこの問題に終止符を打とうとしている僕は、果たして「罪」から逃れられているのだろうか?

お笑い

 「誰も傷つけないお笑い」というのが、少し前に話題になっていた気がする。それがどういったものか詳しくは知らない。しかしおおよその見当はつく。これまでの「お笑い」といえば、とんねるずダウンタウンに代表されるような、ある種の暴力性や理不尽さを含むものだった。「誰も傷つけないお笑い」とは、そうした暴力性や理不尽さを排除した無菌性のお笑いのことを言うのだろう。
 誰かが蹴り飛ばされる、叩かれる、落とし穴に落ちる、ケツバットを食らう。こうしたものは(もちろんお笑いとして成り立っている、という前提のもとでだが)公認された暴力だった。そして僕たちは、それらを面白いと思い、笑っていた。

 この「誰も傷つけないお笑い」という言葉から思い出すことがある。お笑いコンビである「ピース」の又吉が書き、映画にもなった「火花」という小説である。僕は映画しか観ていないが、多々印象的な場面がある映画だった記憶がある。そうした印象に残る場面のひとつが、「俺たちお笑い芸人は、笑わせてるのか、笑われてるのか」と、作中のとあるコンビの一方が他方に問いかけるシーンだ。
 「誰も傷つけないお笑い」は、何も現今になってようやく生まれてきたものでもないだろう。これまでにもいくつもあっただろう。しかし、漫才に代表されるように、お笑いにはボケとツッコミがある。一方が行うボケに対して、他方がツッコミを入れる。このツッコミは言ってしまえば(非常に軽い程度であっても)暴力である。仮にツッコミが暴力でなかったとしても、「ボケ担当のボケを笑う」という僕らが為す行為それ自体も暴力と言えるのではなかろうか。
 例えば日常の中で、誰かがお笑いにおける「ボケ」に相当することをしたと考えよう。それを僕たちはおそらく笑うだろう。「何やってるんだw」と。「そうじゃないだろ笑」というように。このとき、たしかに笑いは生まれている。しかし、「ボケ」てしまった人はそのとき何を思うのだろうか。「あれ、なんかおかしいことしたかな」程度かもしれない。しかし場合によっては「なんで、自分は今笑われているんだろう」と思い、悩むかもしれない。この「ボケ」の発生から「ツッコミ」までの出来事を極度に先鋭化させたものが、過度な「いじり」、あるいは「いじめ」と言われるものではないだろうか。
 「笑わせてるのか、笑われてるのか」の問いに対して、又吉は(映画を観る限りでは)明確な答えを出していない。思うに、又吉でなくても答えを出すのは容易ではなかろう。お笑い芸人たちは、そして僕たちは、果たして笑わせているのか、それとも笑われているのか。この基準は非常に曖昧であり、明瞭に答えが出せる兆しは——少なくとも僕の目には——いまだ見えない。この線引きについては、僕たち自身が意識的にならざるを得ないだろう。今目の前にあるこの光景・状況は、果たして「お笑い」の範囲内に収まるものなのだろうか、と常に問い続けることが、お笑いをお笑い足らしめるはずだ。

 …しかし、そもそもそんなにはっきりと区別できるものなのか、という応答もある。そのような態度は、お笑いにおける白と黒をはっきりさせようとしすぎではないのか。
 …別に笑われていようが構わない。ただ、目の前の人が笑って、笑顔になって、少しでも幸福な気持ちになってくれればそれでいい。ただその笑顔こそが、自分の原動力なのだから。——そのような、「お笑い」に対する愛情を、以前の吉本の騒動で垣間見た気がする。お笑い芸人として活動していく中で様々なしがらみが、様々な人に纏わりついていったのだろう。だがその根本にあるものは、とても簡素で分かりやすいものなのかもしれない。

【雑記】ルール——校則、部則

 小さい頃は、学校の先生は怖かった。特に小学校はそうだった。彼/彼女らは子供がうるさいとすぐに怒る。黒板や机、床といった物を叩き、蹴り、大きな音を出すことで子供たちを恐怖させ、黙らせる。そうした彼らのやり方が、幼いながら不思議ではあった。なぜそんなやり方しかできないのだろう、と。
 もちろん、言って聞くような子供ばかりではない。「静かにしなさい」と言っても静かにならない、授業が進まないから彼らは怒る。しかし、その方法が本当に正しいのかどうか、当時から僕は疑問に思っていて、今でもその疑問は解決していない。
 そんな大人たちを見るうちに「この人たちは、とにかく僕たちを黙らせたい。だから大きな音を立てるんだ」と思うようになった。なんてことはない話である。気に入らないこと、思い通りにならないことがあるから力で黙らせる。それが、それだけが唯一彼/彼女らに許された方法だったのだ。それに気づいたのは小学生も終わりの頃だった。
 おかげで中学・高校の先生たちも別に怖くはなかった。だからといって別に馬鹿にしていたわけではない。一緒にいて楽しい先生、面白い話をする先生もいた。尊敬すべき先生方ももちろんいる。彼/彼女らのことはもちろん好きだったし、今でもそうである。ただ好き嫌いと、怖い怖くないは別の話だというだけだ。


 「先生を恐れる理由は特にない」と思ってから、僕は色々なルールや規則の妥当性に疑問をもつようになってしまった。たとえば、なぜ廊下や階段に座って談笑してはいけないのか、なぜ携帯を持ち込んではいけないのか、なぜ制服をきちんと着なければならないのか、などなど。自明とはいえない根拠からなぜか正当化されている校則があった。(とはいえ、上に挙げた校則・ルールは根拠を示すことができる。だが、絶対にやってはいけないものでもないだろう。)
 なぜ先生たちはこんなことで怒るのか。
 「廊下や階段に座ると人の邪魔になるから。」僕のいた中学は廊下がかなり広く、学年集会にも使われていたほどだ。その廊下の端の方で数人座るぐらい、誰に迷惑をかけるでもなかろう。
 「携帯に意識が向いて授業に集中しなくなるから。」それは当人の問題である。携帯を持ち込みと、授業への集中の度合いは必ずしも相関しているとは言えない。
 「服装は他人に与える印象を大きく左右する。だからときちんと着るべきだ。」確かにそれはそうだろう。外見は内面の一番外側、という言葉もある。社会に出ればまずは見た目で判断される。故に制服をきちんと着こなすことは重要である。
 しかし、服装を先生たちが一律に検査する意味が、いったいどこにあるのか。服装の乱れによって一番悪影響を受けるのは、服装を乱している当人である。先生たちにはなんら影響はないはずだ。もちろん、そういう生徒がいると周囲の住民に知れ渡れば、学校の評判は悪くなるかもしれない。だが、学校の名誉のために生徒の自由を侵害する権利が、本当にあるのだろうか。あるとしても、どこまで侵害してよいのか。このような疑問が当時の僕にはあったし、今でも少しはある(といってももう校則に縛られるような立場ではないので、そこまで興味はないが)。


 こうした疑問は大学においてもあった。理由も根拠も不明なままに、正当化されているルールがある。なぜそんなルールに従わなければならないのか、僕には理解できなかった。「控室では弓道関連以外の本を読んではならない」確かに一理あるだろう。控室、ひいては道場は弓を引くための場所である。決してダラダラ過ごすための場所ではない。しかし、「弓道関連以外の本」には教科書等も含まれる。それらを読み勉強することが、果たして本当に「ダラダラ過ごす」と言えるのだろうか。
 また、ここに「閉場間近ならば待たねばならない」というルールが加わるならば更に話は変わる。閉場間近といえど、それがいつになるかなど分からない。数分〜十分程度ならまだしも、数十分も他人の時間を奪う権利がいったい誰にあるのか。待たねばならないならば、せめて自分の授業や専門に関係のある本ぐらい読んでもよかろう。
 「時間を有効に使え」という教えは、この混乱した状況を完全な矛盾へと追いやる。限りある時間を有効に使おうとすれば、「そんなことを道場でやってはいけない」と諭される。僕らに許されているのは、ただ時間を浪費することだけだ。練習を終え、後は帰るだけの部員をただ何十分も道場に置いておく理由が、どこにあるというのだろうか。
 「別に部則で決まっているわけでもない。ただお前がそう思い込んでいるだけだ。」そうかもしれない。しかし、これは僕以外の部員も認める暗黙のルールである。そして暗黙とはいえ、ルールはルールだ。その集団の内部にいる者たちが受け入れているなら、そのルールは明文化されていようがいまいが、機能せざるを得ない。
 ここまで部内の規則に関する不満を書いたが、これはもはや過去の話である。僕が現役だった頃にも、そして部を去った今でも、こういった理由も根拠も不明な規則は徐々に改善されている。そうした問題意識をもち、行動に移した諸先輩や同期、後輩は立派だと思っている。良くも悪くも伝統を重視する体育会において、このような行動を起こすのは決して容易ではない。彼/彼女らの行為は十分に賞賛されるべきものだろう。


 他に書きたいこともないのでここまでにしておく。まとまりのない内容になってしまった。雑記なので——そもそもブログなどすべて雑記、ただ書かれたものに過ぎないが——こんなものでもよいだろう。この記事で挙げた例は校則や部則など、かなり限定的な規則にすぎない。しかし、僕らの社会生活の中では、これと類似した、意味も理由も分からない、もっと言えば無意味なルール・規範が横行している。曰く、「男なら泣くな」「女ならおしとやかにしろ」など。僕はそれが気に入らない。
 気に入らない、という言葉だと感情的に聞こえるかもしれない。より正確に述べるならば、「今あなたが適用しようとしているルールの根拠を、合理的に、筋道立てて説明してください。それができないならば、そのルールはルール足り得ません」といったところか。ここでいう「合理的に」とは、「十分に頭を働かせて考えた結果、納得・理解できるように」というような意味である。(なお、「合理的に」納得はできるが、直観(=僕たちの素朴な感覚)に反する、という場合も実はあり得る。しかしここでは、その議論には立ち入らない。)
 このように、合理的でない・理屈が通らない規範がまだまだ世界にはある。そうしたふざけたルールを壊してしまいたい気持ちがある。この気持ちも、僕が研究する理由のひとつである。

院試に落ちたりもしたけれど、私はげんきです。

きっと〜目にうつる〜全てのことは〜

第89回アカデミー賞を受賞した謎のハッピーターン型宇宙船に乗ったイカタコ知的生命体との交流を描いた映画こと「メッセージ」〜♪

 

ゆーとりますけども。皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はこのようにしょうもないことを言うくらいには元気です。

 

 院試の結果を一応確認してきました。といっても成績開示には時間がかかるので、採点した教官とのやりとりにはなるのですが。予想していた通り、やはり足切りがあった外国語科目のドイツ語で落ちたようです。一応他の科目では合格点をくださったとのこと。

 なぜドイツ語だと予想できていたかと言うと、通常受験者はこの外国語科目で英語を選択して、余裕で足切りのラインを越えて無事合格するものです。しかし何をトチ狂ったのか僕は、そこでドイツ語を選択してしまったのです。そして文字通り爆死した次第であります。もう足の付け根あたりからバッサリやられましたね。まいったなこりゃ。

 これは僕の院試に関する情報不足が一番の原因でしょう。分からないことは人に聞く、周囲の人に頼る等を怠った僕の責任です。しかしこんなところに足切りがあるとは思わんやろ…。鶴の恩返しの鶴もビックリのトラップやでホンマに。

 ただ、ドイツ語以外で合格点をもらえていても、やはりもっと勉強すべきことがあるのは明白でした。その点は僕も教官も把握で納得済みです。やっぱりほぼ3年放置してたものを1年でカバーしようとしてたのは無理があったのかもしれんね…。

 なのでこの失敗を踏まえて、「外国語は英語を選択すること」「専門分野における“学部レベルの基本事項”は身につけること」「英語にももっと親しむこと」「なんでも自分でなんとかしようとせず、周りの人に助けを求めること」を今年は徹底します。特に最後のはず僕がずっと抱えている問題なので、うまくやっていきたいものです。

 加えて金銭面でもなんとか余裕をもたせたいですね。「貧すれば鈍する」とはよく言ったもので、やはり金銭的に追い詰められると視野が狭くなります。そうした視野の狭さが今回の失敗の一因でもあるでしょう。経済面・健康面などなど、諸々の余裕をもって事に当たっていきましょう、といったところです。

 

追記

 「そこまで勉強にこだわってないで、働いたらどうなんだ」という意見もあるでしょう。実際そんなことを言われたのも、1度や2度ではないですしおすし。この意見には「親にあまり迷惑をかけるな、自立しろ」という意味もあるのだろうと思われます。

 ですが心配は無用です。僕は自分のやりたいことをやるために、親からの支援はほぼ断っています(やっぱりお金が絡むと色々しがらみが出来ちゃうのでね)。そしてもし今後完全に支援を断たれたとしても、生活費や学費、全て自分で出したって構わないという心づもりでいます(いうて学費はたぶん免除してもらえる見込みが高いのでなんとかなる)。心づもりでなんとかなんのかいなと言われそうですが、健康な体とそれなりの心づもりがあれば、人間意外となんとかなるものです。

 就職よりも勉学を選ぶことに関しては、恐らくどうしようも無いです。僕はこれ以外に楽しく生きられそうな道を見つけられないのですから。以前は就活もしていましたが、就活における最も根本的な問題、つまり「何のために自分は働くのか」に対する僕の答えは、いくら考えても「勉強するための金が欲しいから」しか出てきませんでした(そこを捻り出すのが就活だろと言われたらその通りなのですが…)。それで「そんなまどろっこしいことやるくらいならもうさっさと勉学に励めばよくね?」と思い、就活はやめた、という経緯があります。

 安定した生活やステータス、愛する人との幸せな家庭よりも、僕はもっと自分の興味関心のあることを知りたいし考えたい。そのためならば他のことを二の次にするのは、犠牲だなんて全く思いません。所詮好きでやってることなのですから。

 こういうと変人アピールのように聞こえるかもしれません。しかし、人間ならば誰しも一回きりの人生で、一番大切にしたいものがあるはずです。それは裕福な生活や社会的なステータスだったり、幸福な家庭生活や仕事での成功だったりするでしょう。

 もちろん僕も、お金はたくさん欲しいですし、社会的ステータスだって得られるものなら得たい。可愛い彼女や綺麗な奥さんだって出来ることなら欲しい。でもそれよりも欲しいもの、やりたいことがある。それが僕の場合は研究だったという、ただそれだけの話です。

 皆さんもそれぞれ自分の求めるものがあるかと思います。こんなクソ同然の世の中ですが、自分なりの幸福に向かってみんなで幸せに生ききってやりましょう。おわり。