犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

鬼束ちひろを久しぶりに聴いてみて

 宇多田ヒカルが生み出す作品群の根源的テーマが「孤独と愛」ならば、鬼束ちひろのそれは「存在の不確証性」と言えるだろう。と言っても、この2つのテーマはそれほど隔たったものではない。両者の始まりと行き着く先は同じである。ただその道程は非常に異なっている。

 

 鬼束ちひろの根底には、自己の存在の不確かさがある。自分という存在がこの世界に確かに存在している、という確証が持てない。それは彼女の繊細かつ鋭敏すぎる感受性が、世界の醜さを嫌というほど感じ取ってしまうからかもしれない。あるいは、自己と世界の間にある断絶があまりにも大きいために、世界から疎外されているような感覚に陥ってしまうからかもしれない。いずれにせよ、自己と世界があまりにも異質であるために、彼女は「どこにも居場所なんてない」と、悲痛な歌を歌う。

 

 だが自己と世界の断絶を埋めうる存在を彼女は見つける。それは他者である。他者は自己とはあらゆる面で異なっている。物質的にも、心理や意識といった精神的な側面でも、己とは異質な存在である。

 しかしそんな他者であっても、理解し合える点がある。互いに異なる存在であり、両者には隔たりがあったとしても、それらを繋ぐものがある、ということが分かる。それは愛かもしれないし、友情かもしれない。恐らく明確な名前で同定できるようなものではない。しかしその自己と他者を繋ぐものは、たとえ歪な形をした「貴方の手作り」であっても、確かに自分へと向けられたものである。このような繋がりによって自己と他者、ひいては自己と世界の間のあると感じられた隔絶を乗り越えることができる。

 

 しかしそれではまだ十分とは言えない。自己たる「私」の存在を確証することはできた。だが、「貴方」である他者はどうか。「私」が抱えていたように、「貴方」もまたこの世界における自分の存在を疑いたくなってしまう、あるいは疑わざるを得ないときが来るかもしれない。

 自己の存在の不確証性が苦しいことを「私」は知っている。そんなときに「私」には何ができるのか。「貴方」は何も問題などないかのような素振りを見せていたとしても、本当に「分かり合えているかどうかの答えはたぶんどこにもない」。いくら大切で身近な存在だとしても、結局他者は他者でしかない。相手の考えを完全に把握しきる術を我々は今まで持たなかったし、恐らく今後も持ち得ないだろう。

 だからといってそこで問題を投げ捨てるわけにもいかない。大切な「貴方」だからこそ、「私」が感じていたような息苦しさ、生き苦しさを抱えさせたままにはしておけない。では「私」には何ができるのか。

 それはせいぜい、「身体を寄せ合うだけ」だろう。他者が考えていることを十全には、我々は捉えられない。ならばせめて、触れ合うことで互いの物質的な存在の確かさを確認したい、してもらいたい。お互いの温もりを感じ合うことで、確かに「貴方」はここにいると伝えたい、確かに自分はここにいるんだと思ってもらいたい。自分一人だけではなく、異質な他人との関わりによって、「私」も「貴方」も確かにこの世界の中に存在している。それを確信して、安心してもらいたい。

 

 以上が「月光」「流星群」「私とワルツを」の3つ、つまりドラマ「TRICK」の主題歌に用いられた楽曲群を聴いて感じたことだ。正直、鬼束ちひろの曲でマトモに聴いたのはこの3曲だけである。他の曲を聴くと、また違った理解を得られたり、解釈ができるかもしれない。それを楽しみに、上の3つ以外の曲も聴き漁っていこうと思う次第である。