犀の角の日記

ブログ、はじめました。そいつで大きくなりました。

勉強について

英語の学習として、昔英語の授業で使われたテキストを読んでいた。だが、俺はロクに授業に出ていなかったので、そのテキストを読むのは今回が実質初めてだった。その中で以下のようなことが書いてあった。なお原文は英語だが、英文を書くのは面倒なので俺の意訳となる。

 

初等教育では基本的な知識を教えるとともに、勉強の仕方を教えることもまた重要である。」

 

なるほどたしかに、と納得した。学校の授業において、新たな知識の習得は重要視される。むしろ、知識の習得こそが学校という場に最も求められている、と言っても過言ではない。

しかし、学校のもつ役割はそれに限定されない。集団生活における他者との協働・意志の疎通、規律を守る(あるいは破る)必要性の教授、情操面の発育など、その役割は多岐にわたる。中でも初等教育では、新たな知識を得るのと同等に、新たな知識を得るための方法を学ぶことも重要である。人の学びは生涯続く。そのための作法を身に叩き込むのも、学校の果たされるべき役割だろう。そもそも学びの作法を知らなければ、学ぶ行為自体が困難となるのだから。

 

 

久しぶりのブログ

 長い間放置していた。別に意図的なものではなく、結果的なものである。何か書こうかと思いつらつらと文字を綴ることもあったが、結局途中で全て消してしまった。「これを書こう」と思って書き始めても、次第にその話題を記事にする意味を見失う。意味などなくても構わないのに。

 

 まずは近況報告から入る。卒論をなんとか提出した。とても褒められた内容ではない。多くの方に迷惑もかけた。あらゆる角度から「今後の課題」をリアルに感じるものの、兎にも角にも提出したこと自体に価値を見出したい。

 どうせこれからも論文を書くのである。そして書く度に、「今後の課題」を嫌でも突きつけられる。ならばいっそ覚悟を決めて、書ききってしまった方が生産的である。「完璧を目指すより、まず終わらせろ」とも言う。完璧を目指す努力はもちろん怠ってはならないが、完了させる決意の方が優先される。とか言ってるけど明後日には忘れてるんだろうな…。

 

 もう一つの近況報告として、抑うつ症状の改善がある。去年の10月上旬あたりで勝手に薬の服用をやめた。その結果徐々にさまざまな意欲が減退し、12月頃はカーテンを閉めきった部屋に2、3週間近く篭る羽目になった。12月下旬から薬を変え、服用を再開した。ここ2、3日は調子が良く、集中力も1時間ほどはもつようになった。本も新書なら50p読むのも苦にならなくなった。

 改めて思ったが、やはり薬は飲み続けなければいけない。もちろん症状に個人差はあるし、個人によっても病状の経過など違いはある。そのため個人的な話にならざるを得ないが、もう二度とあんな生活を送りたくない。ただただ心を腐らせるような日々は本当に嫌だ。今までもそんな日々が何回もあったが、その度にその生活の最悪さを思い知る。

 ではなぜ、何回も「あんな日々は最悪だ」と思っていながら、服用をやめるのか。その理由は、考えるに「薬を飲むのもままならないほど疲れ切った日々があるから」だろう。別に薬が嫌で飲まなくなるのではない。薬を袋から取り出し、それぞれを適量ずつ手に取り、水を用意し、水とともに薬を飲む。この工程がひどく億劫に感じてしまう日がある。そんな日が続けば薬の効果も当然切れる。さらに億劫さは増していく。悪循環だ。

 誰かが言っていたが、鬱はやはり良くなることはあっても、治ることはないのだ。「鬱から全快しました!」という人をよくネットではみる。だがそういう人も実際は調子が良いだけで、きっかけさえあればポッキリ折れてしまうだろう。ただ、そういったきっかけを完全に排除できたならば、それは全快したと言えるのかもしれないが。

 もとから内向的な傾向の方がやや強い人間だったとは思うが、昔は今ほど他人に厭な感情をもっていなかった。街中の人混みも賑やかで楽しかったし、周囲の雑音も大して気にしていなかった。

 しかし今は他人が視界に入るだけで気が滅入る。赤の他人にも憎しみを覚える。雑音にもひどく敏感になり、目の前の作業にほとんど集中できなくなった。人と視線を合わせるのがひどく怖く、友人の目も見られない。辛いと言えば辛いのだが、それ以上に、こんな風になってしまったことに悲しみを感じる方が多い。

 

 暗い話題になってしまった。しかしブログなので許して欲しい。別にこの記事は出版物ではなく、個人的感情の吐露だ。気分を害されたならば、何か気が晴れることをされるのがよかろう。何をすれば明るい気分になるのかは、自分では見当もつかないが。

 

 久しぶりにブログを書いてみて感じたことだが、やはりツイッターとブログは担う役割が全く違う。どちらかがもう一方の代替品にはなり得ない。ツイッターは1投稿ごとに字数制限が設けられるため、どうしても思考が途切れる。「思考」という表現が大げさなら、「考え」と言い換えても問題ない。

 なんらかの文章を書く以上、その文章にはなんらかの思考が必ず入り込む。それが端的に表せるものならツイッターが向いているし、長いものならブログが良い。上手く使い分けて利用したいものである。まあ、自分はどちらも頻繁に使っているとは言えない気もするが。今日は以上。読んでいただきありがとうございました。

 

あ゛

今週になってから風呂に入っていない。バイトも水曜から休んでいる。体調が悪いこともある。だがそれ以上に心調が悪いことがある。色々なものに(勝手に)期待しすぎ、(勝手に)裏切られたと感じていることがその由縁である。

 

なんだかんだ言って俺は人間が好きで、他の人たちと何かをやることに喜びを見出だすタイプである。スポーツにしろ、文化祭の準備にしろ、バイトにしろ、勉強にしろ、である。なんだかんだ言って俺は人間というものに期待してしまう。人間は如何なる状況にあっても、自らが望む幸福を掴もうともがく生き物だと信じている(このもがきから新たなもの・未知のものを生み出す可能性があるため、人間には価値がある(invaluable=価値をつけることができないほど、価値がある)存在だと思う)。そんな俺だから、「現状に希望を見出そうともせず、ただただ生命を浪費する人々」を見ると、勝手に失望してしまうのである。「こいつは自分の命に対して何の責任も負うていない! 自分の生命によって何を為すのか何も考えちゃいない!」と。我ながら何様だよとは思うが。

 

そんなクソのような人々と関わる(関わらざるを得ない)ことが多く、思っていた以上に精神的に参っていた、というのが最近のことであり、この記事の要旨である。やれやれだぜ。

 

そこで一旦バイトから距離を置きたい、なんなら身の回りのもの全てから距離を置きたいと考え、水曜から引きこもっていたわけである。引きこもり誰とも会わないから風呂にも入らずにいるわけである。全て理解した上で汚れを溜め込んでいるので、俺は汚くないのである(?)。そこのところを間違えないで欲しい(???)(誰に向けての何のための注意だ)。

 

 

まとまりのない文章であることはご了承いただきたい。もうグチャグチャなのである。思ったことをただ吐き出すことで精一杯なのだ。許してくれ。

 

 

まずバイトについてである。今現在やっているバイトは内容に比して時給が良いわけではない。楽しくもない。よって続ける理由はない。なので次のバイトを考える。次は時給が下がろうとも、もう少し心に余裕がもてるものにしたい。でないとまた繰り返し、つまり引きこもりになってしまう。

「そんな都合のいいことがあるか」というツッコミはもっともである。俺もまたガッカリするかもしれない。だからといってそこで諦めてしまっては、俺自身が「現状に希望を見出そうともせず、ただただ自分の生命を浪費する人」になってしまう。それだけは避けなければならない。なぜなら、そんなのは人間の生き方ではないと思うからだ。なので諦めずまたフラフラするのである。

 

また、そもそもバイトに身を入れすぎじゃないかという考えもある。その通りである。俺の元々の考えでは「いくらだって生活レベルは落としても構わない。ただ勉強だけはしたい」というものだった。その結果としての引越しその他諸々だったのである。

そこでバイトに精を出したのはまず「とりあえず生活費を稼がなければ」という意識からだった。そこから欲が出て「あれが欲しい。これも欲しい。あれもやりたい。それもしたい」となり、結果勉強のための手段でしかなかったバイトが俺の生活の中で大きなウェイトを占めるようになったのだった。我ながらバカだなと思う。

そこで改めて考える。俺は何がしたいのか。何をすべきなのか。幸い「あれが欲しい」といったいった欲も最近少なくなってきた。やらなきゃいけないこと・達成されるべきゴールは以前としてあるが、その道程は今からでも変更可能である。むしろ変更しなきゃ破滅真っしぐらである。なので、ここ数ヶ月バイト中心だった生活を、勉強中心の生活へと変える。他の誰でもなく、俺自身の生を生きるために。

 

 

色々取り留めもなく書いたが、要は

・バイト変える

・バイト中心から勉強中心の生活にする

・人間に対しての期待は抑える(ココ大事)

ということだ。バイトにのめり込みすぎたっちゅうこっちゃ工藤。まあええ薬になったと考えていこうや。

 

はい、終わりです。締まり悪いな。

 

反省

久しぶりに重めの風邪をひいてしまった。元々季節の変わり目には体調を崩しやすい質だが、今回のはがっつりくらってしまった。

思い起こせば9月は気ばかりが急いてしまって、その勢いに中身が伴わずまた焦る、という悪循環に陥っていたような気がする。出来ることは出来るし、出来ないことは出来ない。無理しないように、ただしゴールはしっかり見据えて着実に、年で言えば残りの3か月、年度で言えば残りの半年(実質3か月だ…)、歩みを重ねていきたい。幸い10月は大きな用事もない。やることを確実にやっていくことで、自分なりのペースと心の安定を取り戻していく。

 

そう、年度で言っても勝負は残り3カ月なのだ。今自分で書いてビビってしまった。マジか。マジだ。あと3カ月後にはいっぱしの論文とやらを書き上げねばならない。ドキドキワクワク。ドキがムネムネ。それはクレヨンしんちゃんである。正しくは胸がドキドキだ。そういうわけで、ハイロウズの「胸がドキドキ」のリンクを貼って終わり。流れが無理矢理すぎる? そんなことはない。いつだってなんだって音楽へと流れ着くのだ、たぶん。

 

https://sp.nicovideo.jp/watch/sm5829656

 

 

怒り

ケチらずにちゃんとしたご飯を食べるようにしたら頭痛は止んだ。栄養って大事なんですね。大事だからなんだって話なんだけど。

 

頭痛は治まっても続くものがある。怒りである。俺が「頭痛のせいで体が震える」と思っていたものは正しくは「怒りのせいで体が震える」だった。

 

薬が無くなるタイミングと秋の冷気にやられたのが重なったこと、また病院への予約の電話が酷く面倒だったこと、予定が立て込んでいたことなどなどにより、一週間近く薬を飲んでいないことになる。

 

常に怒りがある。何もかもに対しての怒りがある。それがふとした瞬間に爆発しそうになる。その瞬間には本当に体が弾け飛ぶんじゃないかと思うほど、体のあちこちが震える感覚がする。ドクンという鼓動とともに、前腕が、ふくらはぎが、太ももが、頭が、胸が。その瞬間によって箇所はランダムだが、その部分が吹き飛ぶような感覚が鼓動と共にやってくる。「本当に弾けたらどうなるんだろう」と考えてもみるけれど、まだ五体満足の状態で生活したいのであまり考えないようにしている。

 

この怒りは破壊衝動と結びついている。とにかく壊したい。目につくものならなんでも。目の前で崩れてほしい。粉々になってほしい。割れてほしい。折れてほしい。ぺちゃんこになってほしい。なんでもかんでも。でもそうもいかない。前科者になる気もない。それに壊したところで解決するものでもないだろう。

 

そんな日々だから音楽を聴く。音楽が俺の代わりに壊してくれる。完全に代替してくれるわけではないけど、それでも音の奔流に神経を集中させると多少すっきりする。とびっきり激しい曲をかける。座って目を閉じる。ただ音楽を聴くだけ。他には何も考えない、感じない。俺の代わりに、俺と共に怒ってくれる音楽だけに意識を向ける。最近の調子は、そんなところです、先生。

めちゃくちゃどうでもいい話

俺は小物に割とこだわる方だと思う。アクセサリーはつけないが、メガネやキーホルダー、しおり、その他ちょっとした、まさに小物には「これだ!」と思ったものが欲しくなる。たとえ多少値が張るとしても、「こいつにはその価値がある」と思い、金を出したくなる性分である。

そうした小物へのこだわりについて、ある思い出がある。高校生の時の話である。当時の弓道部副顧問(副顧問になってから弓を始めたが、なんだかやってる内にハマってバリバリ上手くなってた記憶がある)との会話。

 

副顧問「どうだ。俺のキーホルダーよくね?」

俺「(なにかと思えばキーホルダーの話かよ。でもまあ)…たしかにいいですね」

副顧問「だろ? 欲しいか?」

俺「(何ゆうとんねやこいつ)もらえるなら欲しいですね」

副顧問「そうかそうか。まああげねーけどな」

俺「(マジでなんだこいつ)でしょうね」

副顧問「ハッハッハ。…でも、小物にこだわってると、「大物」になれねえぞ?」

俺「(は?)……はあ???」

副顧問「ハッハッハ…(笑いながら弓引きに去って行く)」

 

しょーもない会話だと、いつ思い出しても思う。結局あいつは何がしたかったんやとも考える。ただ、こういうめちゃくちゃどうでもいいことこそ、不思議といつまでも覚えていてしまうものである。

 

「虫、大丈夫ですか?」

昨日のバイト中に、突然そう聞かれた。「虫の、何に関して、大丈夫なのかと聞きたいんだ?」と思いつつ指差された方向を見ると、天井から蜘蛛がぶら下がっていた。どうやら「虫触れますか? 触れるなら、あの蜘蛛をどうにかしてほしいんですけど」という意味だったらしい。

 

ムカデのような視覚に強烈に訴えるフォルムをもつ虫ならともかく、蜘蛛はただ蜘蛛だ。しかも全長1.5cmほどである。それでも苦手な人は苦手らしい。できれば外に放ってやりたかったが、生憎バイト中である。他にもやることはあるし迂闊に外には出られない。そこで仕方なく紙に包んでゴミ箱に捨てた。

 

頼んできた相手は「すご〜」などと言っていた。何がすごいのか。あの蜘蛛は全く抵抗しなかった。大人しく紙に包まれて、大人しくゴミ箱に捨てられた。紙に包まれる前だって何かをしたわけではない。ただ通気口の隙間から偶然か不運か、糸を垂らして降りてきただけである。誰かや何かに迷惑をかけたわけでもなかった。あいつは何も悪いことなどしていなかった。ただそこに居ただけなのに、蜘蛛だというだけで忌み嫌われ駆除された。

 

先日の記事で「人間は酷く醜く、かつこの上なく美しい生き物だ」と書いておいてなんだが、やはり人間は度し難い。より正確に言えば、人間よりも他の生き物の方がよっぽど俺は好感を持てる。彼らは本能というただの反射にせよ、なんらかの感情のようなものによるにせよ、正直に生きている。

「そうあれかし」と組み込まれたものにせよ、ただ餌を食べたいから餌を食べ、巣を作りたいから巣を作り、繁殖したいから繁殖する。素直で誠実な生き方である。俺は彼らのそういう生き方が(たとえそれらが知能の低さや環境への適応等の結果であるとしても)とても羨ましい。それと同時に、そんな生き方を見ていると心が落ち着いてくるのである。

彼らは俺たちのように目の前の小さな目的達成のために生きているのではない。ただ生きたいから生きているのだ。未来のアレコレや昔のコレソレに思い煩いながら生きてなどいない。ただ“この”瞬間だけを見据えて生きている。そうした生き方が、純粋に羨ましく、尊いものに思える。そんなことを考えていた。